島原・天草の城めぐり。3日目は朝駆けで佐敷城を探索した後、前日に泊まった八代まで戻って八代城を目指す予定だったのですが。
八代城に行く途中で麦島城のそばを通るよね。行ってみたいよね。・・・行く?
ということで、急遽立ち寄ることに。
麦島城とは
八代には3つの八代城がありました。
- 初代八代城 古麓城(1334~1588年)
南北朝時代から戦国時代 名和氏と相良氏によって築かれ、整備された山城。麦島城の築城により廃城。 - 2代目八代城 麦島城(1558~1619年)
八代の領主となったキリシタン大名・小西行長が築城。1619年の大地震で倒壊。八代城に移る。 - 3代目八代城 松江城(1622~1870年)
加藤正方が麦島城に替わって築城。
豊臣秀吉の九州平定後、肥後は秀吉の家臣である佐々成政の所領となったもののその後に起こった肥後全体の一揆の責を負って切腹。肥後南部は小西行長に与えられました。2代目八代城である麦島城は小西行長の命により築かれ、小西行重(こにしゆきしげ)を城代としました。
現在は埋め立てられて2つの川に挟まれた平地にあるが当時は本丸、二ノ丸、三ノ丸が大きな堀に囲まれていました・・・いや、海に曲輪が浮かんでいる城といった感じだったようです。
1996~2003年の発掘調査によってそれまで詳細が不明だった麦島城の規模や縄張が確認でき、天守台石垣や本丸御殿跡、地震で崩壊したとみられる石垣や朝鮮瓦、金箔鯱瓦などが見つかっています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は加藤清正が八代を治めることになり、加藤正方(まさかた)が在城して加藤氏の支城となった際に改修が施されました。元和元年(1615年)の一国一城令でも加藤領は例外として熊本城と麦島城の二城は残されました。麦島城は近くに港があって交通の要所を抑える場所だったととともに、キリスト教の布教に目を光らせるために存続したようです。近くに加藤氏時代に禁教により殉教した11人を祀る列福記念公園があることからもわかります。
せっかく残されたものの元和5年(1619年)の大地震により崩壊。加藤正方は松江の八代城に移り、麦島城は廃城となりました。
上記の図は二ノ丸跡にあるシルバーワークプラザの案内板からの切り出しです。
資料によっては「』型」状の二ノ丸、その左上に小さな本丸、一番左側に三ノ丸という図もあるのだけど、まぁざっくり3つの曲輪が川に浮いていたよということで。
写真の②の部分、二ノ丸東側の堀からは平櫓が地震で倒壊したまま見つかっています。
二ノ丸
車で二ノ丸跡だったという、シルバーワークプラザへやってきました。
シルバーワークプラザの向こう側の角を左に入ったところが大手口と想定されるらしい。八代城に向かう際に車で通ったけど、肝心のその入り口の写真を撮るのを忘れた・・・。
シルバーワークプラザの案内看板によると、合坂(あいざか)と呼ばれる石垣の階段部分が発掘調査で出てきたそうです。
シルバーワークプラザ建設時の発掘調査で南北20mにわたる石垣が出土し、石垣には合坂と呼ばれる階段部分がありました。
平日ならシルバーワークプラザのロビーでその石垣の一部を見ることができます。麦島城の廃城後に登れないように瓦で埋め隠されていたという。壊されずに隠されていたために現在でも見ることができるんですね。
この日は日曜だったので見学できず残念でした。
車に戻り、大手口跡を通って次は本丸天守台跡を探しに行きます。
本丸天守台跡
麦島線から少し北側に入ったところに麦島城の本丸天守台跡があります。これはちょっとわかりにくかった。
現在は宅地化されていますが本丸天守台のこの奥側かな。西側には南蛮船のような大型船が入ってこれる大きな堀があったと推測されるとのこと。
三重の大天守と二重の小天守が並んで建っていたと想定されていて、案内板によると、天守は麦島城の廃城後に丸い石で厚く埋め隠されていたとのこと。
なお、本丸跡の石垣は麦島線という道路建設時の発掘調査でも見つかっていて、建物の礎石や金箔瓦も出土しました。現在は保存のため埋め戻されていて、その部分は道路が少し盛り上がっているそうです。
麦島城 国指定史跡
- 住所:熊本県八代市古城町2112
- アクセス:八代駅からバス 「迎町」バス停下車
- 駐車場:なし