2021年3月に行った島原・天草の城めぐり。島原城、丸尾城、日野江城とまわって日没ギリギリのところで原城にやってきました。
原城の前に有馬キリシタン遺産記念館に立ち寄って続日本100名城スタンプを押す。これは忘れてはいけない!
有馬キリシタン遺産記念館には、日野江城の発掘調査で見つかった金箔瓦、原城の発掘で見つかったクルスや銃弾、さらに本丸正門付近から見つかった人骨レプリカなどが展示されています。
今回は時間が足りなくてスタンプを押して撤退となってしまったので、次回はぜひゆっくり見学したい。
原城 縄張図
まずは縄張図で全体像を把握。
縄張図だけではピンとこなかったけど、実際の地図に当てはめてみると想像以上に広かった!曲輪のひとつひとつがでかい!
縄張図に曲輪の位置を追記してみたけれど、二ノ丸の出丸と西二ノ丸の間の堀が広大すぎる。
島原の乱で一揆民が立てこもった原城。一度この目で約40,000人とも37,000人とも伝わる人々が立てこもったという場所に建ってみたかった!
島原の乱の原因の一つとなった島原藩の圧政についてはこちらで説明しています。これじゃぁ一揆や反乱を起こしたくなるわな。
訪れたのは2004年とずいぶん前ですが、白亜の五層天守がとてもきれいで印象に残ったので紹介します。 長崎県にある島原城。その凄惨な歴史とはうらはらに白亜の五層天守はとってもフォトジェニック📸。とにかく美しいのでお気に入りなのです💕。 […]
原城へ
原城に到着したのが18時頃。日没直前なのでだいぶ写真が暗いです。畑や田んぼの中を車を走らせると原城跡への看板が見えてきました。
ずっとこんなこんな感じで車を走らせていると左に折れる道が現れた。それは大手へ向かうのだけど、曲がらずにさらにまっすぐ行くと本丸に出ます。
駐車場を探して本丸方面に車を走らせていたら本丸を通り越して、気づいたら原城の南端の天草丸まで来てしまった!😅
天草丸
本丸を通り過ぎてしまったけど、看板が見えたので近くにいったん車を停めて周囲を散策。
駐車場ではないのだけど、日没間近で人もほとんどいなかったことからちょっとだけ車を停めさせてもらい、急いで探索。
天草丸まで来たところで原城の城址碑を発見。
天草丸。別名松山丸。原城の曲輪の中では最も小規模だったらしい。それでも案内版によると
一揆の際には天草、小浜村、串山村などの約4千名が守備したため、天草丸と呼ばれました。
こんな狭いところに4,000名もいたのか!
幕府軍の総攻撃で黒田勢に激しく攻め込まれて陥落したという。
天草丸の看板は海に面した平場にありましたが、縄張図を見るとこの写真の右側のこんもりした森っぽいところのようです。
天草丸はこんな平場にあったの!?と思ったらやっぱり違うようだ。この上に4,000人がいたのかー。
天草丸を背にし、振り返ったらすごかった!
本丸西側も絶景です
本丸、規模がでかいな!とても見やすく整備してくれているので破却を免れた石垣もしっかり見える。原城の南西の端にあるのでここまで来る人はガチの城好きくらいだな。ぜひここから本丸と鳩山出丸をながめてもらいたい。
細かく区画が割られてているのだけど、ところどころ「現代の遺構」もあるので遠目で見ると当時のものか現代のものなのかが判別つかない。
段々になっていて石垣がめぐっている。この作りは日野江城のようだけど、どこまで当時のものなんだろう?
原城の再現CGなどを見ると本丸正面のほうは高石垣に囲まれているけど、段々になっている再現画像もあったりして、この場所ははそれに該当するのではないかと思う。
写真左上の張り出しは本丸の櫓台跡。櫓台のまわりは上の部分の石は落とされてしまっているようだけど、下の方に石垣が残っています。
そのまま上がれば本丸に入って行けそうだけど、正面から入りたいのでいったん散策はここで中止。
本丸下にはゴロゴロと大きな石が。高石垣を構成していたものたちが集められているのであろうか。
鳩山出丸
道を挟んだ反対側の高まりが鳩山出丸。段々になっていて登れないこともなさそうだけど(いや、けっこう傾斜が急なので簡単には登れないって。😅)、鳩山出丸の反対側は崖までいかなくてもけっこうな高低差になっている。島原の乱の際はこの鳩山出丸の先の丘に幕府軍が陣取っているので、目隠しにもなるわけで。良い場所にあるなぁ。
改めて、車を停めて本丸を目指して歩く。車で通り抜けた時にも思ったけど、車での移動にも数分かかるくらい広い。なんなんだこの広さは!
二ノ丸
改めて駐車場に車を置き、本丸へ向かう。道を挟んで左に二の丸、右に二ノ丸出丸と大きな堀を挟んで西二ノ丸。右も左も緑の草で覆われているのだけど、一つの曲輪がでかすぎてまるで「どこまで行っても二ノ丸」な感じ。
二ノ丸は原城内で最も広大な曲輪だというのも納得です。
写真の右が二ノ丸出丸、左が西二ノ丸。これは自然地形を利用したのか、人工的なものなのか?これまた規模が大きい。二つの曲輪の間の堀が巨大すぎる。堀の奥で切れた部分から民家が見えるけど、民家の位置に対してこちらが高いということがわかる。
島原・天草一揆の際にはこの二ノ丸出丸の先端部分が幕府軍の総攻撃の拠点になったりと戦いの最前線だったそうです。
近くまで下りてみたかったけど、この時点で18時過ぎていて日没が迫っていたので先を急ぐ。
本丸に面して左側、二の丸には世界遺産の碑が立っていました。
2018年に長崎と天草地方の12のキリシタン関連史跡が世界文化遺産に登録されました。今回の旅では12の史跡のうち、原城の他には崎津集落を訪れました。そのことは旅行記サイトのほうで掲載します。
こんな感じでひたすら歩く。何度でも言おう。二ノ丸、広すぎ!
かつては城主の居住区であったと伝えられていて、島原の乱の際にはびっしりと密集して一揆勢が建てた小屋が並んでいたらしいです。多数の一揆勢がここに籠りましたが、総攻撃の際には激しい戦いが行われたそうです。
城主の居住区であった当時、こんな広大なところに何を立てるんだよ!?と思ったけど、本丸にキリスト教関連の施設が建っていたという記録も残るから、キリスト教関連施設も建っていたのかなぁ。
西二ノ丸にここだけあった謎の石垣。石垣が使われていたのは本丸のみということだし、近くで見てないからわからないけど石は生成してあるっぽいし、現代に畑として使われていてその際の土留めか?
本丸の直前にはこれまた巨大な空堀があって、ところどころに石垣が貼られていました。近くで見ていないからわからないけど、これも現代のものか?
あーあーあーあー。近くまで行きたいよー。
ここの作りがまた秀逸なんです。本丸に入る直前に右にはこの空堀。左には湧き水が出ていて一揆軍の飲み水が確保できたという蓮池跡があり、道が急に狭められて土橋状態になっていたのでしょうね。そして少し右に曲げられて本丸へ。
いいねぇ~。
素敵な作りだねぇ~。
それでは、本丸へ向かいます。
いよいよ本丸へ。
本丸付近はまだ人がいて正面からは撮れなかったので、写真は帰り際に撮った本丸正面です。だいぶ補正したけど暗いな。
本丸への導線は門を通過するたびに狭く小さくなっていきます
- 1
- 2