2021年3月に行った島原・天草の城めぐり。この旅のメインイベントは熊本地震による復興中の熊本城を見に行くこと!特別通路からは「鳥の視点で天守や石垣が見られる」ということで、天守復元公開の直前に行ってきたよ。
その前に、改めて震災前の熊本城を振り返るため、2009年7月に初めて行った時の写真をまとめて掲載します。
今とは違い、写真の解像度も劣っているし、友達との観光で行ったのでじっくり見ることはしてきませんでした。そして行く時期を間違えた・・・。7月の熊本は恐ろしく暑く、熱中症寸前で宇土櫓に行けずに退出。もったいないことをした。
城はそこにいつでもあるというけれど、その時でしか見られない景色もある、と、熊本地震で被災した熊本城、火災で焼失した首里城御殿と宝物のことからも実感。城は行きたいと思うときに行くべし!です。
熊本城とは
言わずと知れた加藤清正の手掛けた最高傑作。日本100名城に選出されているだけでなく、震災前は「行ってよかった日本の城」系ランキングでも必ず上位でした。
加藤清正が築城の計画を始めてから途中に文禄・慶長の役(1592~98年)があって一時中断したものの、慶長12年(1607年)頃には大天守・小天守が築かれてほぼ完成。寛永9年(1632年)に加藤氏の後に入った細川忠利は、寛永2年(1625年)に発生した大地震により痛んだ城の修理と改修を行いましたが、清正と熊本城に敬意を払い、無謀な改修を行わなわず、その後も何度も地震に合いましたが、歴代のお殿様によって修理され、守られて現在に至ります。
6回も折れ曲がる連続外枡形に清正流といわれる高石垣、さらに天守に匹敵するような規模の宇土櫓が現存し、戦後にコンクリートで復興された大天守・小天守と見どころ満載な城です。本丸御殿が2008年4月に復元されてからその豪華さにますます注目され、今や、いつ行っても大人気な観光スポットです。
熊本城のすごさは櫓や巨大門が過剰防衛といわれるほど設置された重装備だったこと!
3つの川を堀として利用
白川、坪井川、井芹川という3つの河川を堀として利用するため川の流れを変える工事を実施!
執拗に桝形を配置して徹底的な守りを築く
城の南側の竹ノ丸の導線は連続桝形が待ち構える!ここまでしつこく張りめぐらした桝形は熊本城だけ!
大小さまざまな大きさの櫓を数多く備えていた
西南戦争、その後の明治になってからのの金峰山地震によって石垣とともに多くの櫓が倒壊し、櫓の数は1/4になってしまったそうですが、要所要所に設置した櫓の数は40とも60ともいわれているけど、とにかく多かったことは間違いない。
さらに数だけではなく大きさも十分すぎるほどで、五層地下1階の宇土櫓だけでなく、飯田丸五階櫓など他の城では天守に相当する巨大な櫓がゴロゴロしていました。そんな中でも巨大五階櫓は別格!
巨大五階櫓5基
他の城であるならば天守に匹敵する規模の櫓が5基もあった!宇土櫓は西側からは第三の天守と呼ばれるほどの規模!
- 宇土櫓(現存)
- 飯田丸五階櫓
- 御裏五階櫓
- 数寄屋丸五階櫓
- 竹ノ丸五階櫓
西出丸に3つもあった大手門
西出丸だけで西大手門、南大手門、北大手門と大手門が3つも!
- 西大手門 いわゆる「正門」でもっとも格式が高く、近くには藩主の到着や出発を知らせる太鼓が備わった元太鼓櫓が置かれていました。
- 南大手門 3つの大手門のうち、最も規模が大きなもの。復元
- 北大手門
その他、現存する門として不開門(あかずもん)がありましたが、地震で倒壊してしまいました。
そして近世城郭の中には戦を経験していない城も多いけれど、熊本城は幕末に実戦を経験しているのも特徴のひとつ。西南戦争では官軍が陣取りましたが、南から攻めてきた西郷軍に対して守り切ったということから、近代戦でも戦えることを実証しました。西郷隆盛が「おいは官軍に負けたわけではない。清正公に負けたんだ」という語った逸話は有名です。
そもそも南の薩摩を警戒して築かれた城ですが、まさに南から攻めてきた西郷隆盛軍と戦って勝ったわけで。建築当時、飛距離がなかった鉄砲や大砲に対するだけでなく、飛距離を伸ばした幕末にも耐えうる城を築いた加藤清正の念の入れ方と執念が感じられる城です。お城に興味がない人でもその建築技術にはため息をつかざるを得ない、誰もが楽しめる城です。
熊本城 縄張図
縄張図が手に入らず、熊本城の公式サイトの案内図が詳しくてわかりやすかったので引用させていただきました。熊本城の縄張については、2021年3月の旅行記で記載します。(現在鋭意作成中!)
熊本城へ
熊本駅前から市電に乗り「市役所前」で下車。5分くらい歩いて加藤清正公像の前に到着。熊本駅からだと市電でもバスでも30分弱くらいです。
加藤清正公像、見つけた!!!そして背後にあるのは2005年に木造で復元された飯田丸五階櫓ではないか!2016年の熊本地震で「奇跡の一本柱」として話題になったあの建物ですね。震災後に見た写真では黒塗りが落ちて木材の色がそのまま出ているように見えたけど、2009年時点では黒々として見えました。
そして上の写真の奥の石垣の上には2014年に馬具櫓が復元されました。ワタシが行った2009年当時はまだありませんね。馬具櫓も震災で石垣がだいぶ崩れ、現在同じ構図で写真を撮ると、崩れたままの石垣が写るようです。
2021年訪問時には車で行き、二ノ丸駐車場に停めたので加藤清正公像のところまでは行きませんでした。時間があったら行って同じ方向から撮影したかったな。
入口にある復元予想図がわかりやすい。築城当時は大天守、小天守のほか櫓49、櫓門18、城門29を備えたという。
道路を渡り、行幸橋(みゆきばし)を渡って水が張られた備前堀を左に眺めながら入場。
備前堀は城外側は土塁のままだけど城内側は石垣になっている。
備前堀を渡るとさっそく石垣に囲まれた桝形が現れ、右折するようになっている。この石垣だけでも十分に高い。
この写真の右折した先の突き当りに馬具櫓が再建されたのね。
櫨方門(はぜかたもん)を通り抜け、竹ノ丸へ。
竹ノ丸
熊本城内には井戸が120もあったと伝わっています。朝鮮出兵の際の籠城戦で最も苦労したのが飲料水の確保。その教訓により、小天守の地下にも井戸を設けたくらい。この井戸は深さ約7mもあり、覆屋(おおいや)は明治4年ごろに撮影した写真をもとに再建したそうです。
竹ノ丸の井戸を横目に、熊本城随一のキル・ゾーンへ!
ここから先は連続外桝形が待ち構えている。まず突き当りを右に曲がり、6回も右左折を繰り返します。手前右には元札櫓門、手前左には茶櫓、右奥の一段高くなった石垣の上に竹ノ丸五階櫓、中央に飯田丸三階櫓、左奥のさらに高くなった石垣の上には飯田丸隅櫓。どの曲輪もところどころ”折れ”があって侵入者に対して横矢がかかるようになっていたり、その上には櫓が通路に対して張り出していたりと複雑。右左折を繰り返していくとどこに向かっているのかわからなくなる。さらに周りは高石垣で奥に進むにつれどんどん石垣は高くなっていくわけで。見通しも悪いし、どこに向かっているのだか判別つかなくなります。
西南戦争の際に砲台として使われるために櫓や土塀は撤廃されてしまいましたが、残っていたままだったら数々の櫓と土塀、その先には天守の威圧感。絶望的になるよね。
が、どうもコース取りを何か間違っていたようで、熊本城でよくあるフォトジェニックなスポット「本丸御殿の下の二様の石垣と奥に見える大天守」の写真を撮ってたと思うんだけど紛失。コンデジではなく当時の携帯で撮っていたのか!?撮っていたはずだけどな・・・。
残っている写真を見ると、竹ノ丸を歩いていた形跡がある。
竹ノ丸を熊本大神宮のほうに進み、東竹ノ丸に建つ国指定の重要櫓群を下から眺めていたようです。
築城当初に49もあった櫓は西南戦争直前の火災により大半が焼失。震災前にはその中でも残った13の建造物が国の重要文化財に指定されていました。東竹ノ丸には8つの櫓があり、熊本地震では源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓は倒壊を免れたものの、残念ながら東十八間櫓、北十八間櫓は倒壊、五間櫓は解体となりました。
そしてこれらの櫓を途中から東竹ノ丸に上がって眺めていたようだ。
2021年9月現在、Google mapで見て見ましたが、瓦は残っているものの、壁は剥がれて無残な様子です。ここまで来た覚えはなかったのですが、わりと隅々までまわっていたようです。
そしてここから先は写真が途切れてしまい、おそらく携帯で撮影したであろう竹ノ丸の連続桝形の写真を紛失。
過去写真を発掘して出てきたのは連続桝形を抜けて北に向かったところで見える大天守と小天守。
大天守と小天守
やっぱりいいなぁ。ここから仰ぎ見る大天守と小天守。
本丸の天守ゾーンへ。大天守脇に作られた通路を通ってショートカットして本丸の天守ゾーンへ。
距離を開けて撮影するのもよけど、下から仰ぎ見た際に画角がちょうどよい。これが名古屋城や大阪城だと天守がおおきすぎて歪んじゃう。
そしてやっぱり正面から見る大天守と小天守。いい!
大天守は石垣より張り出しているのでさらにどっしりと大きく感じる。
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