- 2021年7月31日
- 2021年8月1日
本渡城 実態がまだわからない城。明徳寺の異人地藏も忘れずに! ~島原・天草の城めぐり(11)
島原・天草の城めぐり。天草下島を北上して本渡城へ。1日目に続いて島原の乱の舞台になった場所にやってきました。 本渡城は公園化されたところは発掘調査されていて城に関する遺物が見つかっているものの公園化されすぎて遺構はわからない。それ以外の曲輪も含めてどこが本丸なのか、城域もわかっていないという謎の多い […]
天草氏代々の居城。現在は海からは少し離れているものの、「船之尾」という地名から近くまで海が迫っていたと考えられている。
広範囲に広がる尾根上に曲輪群が広がり、整備されている殉教公園と天草キリシタン館を含む、一説には惣陣山から千人塚がある殉教公園までが城域だったとも考えられている。
殉教公園のある出丸、天草キリシタン館のある二ノ丸は、整備時の発掘調査で15~16世紀の出土遺物が発見されているので「城」として機能していたといえるが、山の奥に入った種元碑~城内馬場~権現山、矢繰場ではまだ城跡に関連する出土遺物は確認できておらず、まだ全容は解明されていない。
歴史をさかのぼると、天正17年(1589年)の天正天草合戦の舞台となった城でもあります。肥後を治めることになった秀吉の部下、加藤清正と小西行長のうち、小西行長が天草を統治することになる。地元の領主「天草五人衆」が小西行長の与力となったが、行長からの宇土城建築への協力を拒んだことから戦いに発展。本渡城は当時、天草地方で最大級の規模の城でしたが小西行長・加藤清正の連合軍に攻められることに。本渡城の城主だった天草伊豆守種元は洗礼名をドン・アンドレというキリシタンでもあり、城内にはキリスト教会が存在していたといいます。城内にいた宣教師や周辺に住むキリシタンたちも城に立て籠もり、最後は城主の種元は自害、多くのキリシタンの命とともに本渡城は落城しました。
宣教師ルイス=フロイスはこのときのことを「天草キリシタンの悲劇」として記録を残し、ローマヘも報告しています。
時代が下って、寛永14年(1637年)の島原の乱では島津藩と一揆勢が激しい戦いが繰り広げられます。
天草四郎率いる一揆軍が本渡城など天草支配の拠点を攻撃。本渡城内の公園化されているところには、その時の戦死者を弔う千人塚があります。
1589年の天正天草合戦ではキリシタンとともに戦い、1637年の島原の乱ではキリシタンから攻められるという、城の歴史のターニングポイントとなる時にはキリシタンの人々が密接に絡んでいたという城です。
発掘調査では16世紀中頃~後半と考えられる焼土面が確認されていて、土師器皿なども出土しているが、キリシタンに関連する遺構や遺物は出てこなかった
島原・天草の城めぐり。天草下島を北上して本渡城へ。1日目に続いて島原の乱の舞台になった場所にやってきました。 本渡城は公園化されたところは発掘調査されていて城に関する遺物が見つかっているものの公園化されすぎて遺構はわからない。それ以外の曲輪も含めてどこが本丸なのか、城域もわかっていないという謎の多い […]