2021年3月に行った島原・天草の城めぐり。八代城の後は熊本市街に向けてひたすらドライブ。途中で宇土古城、宇土城に立ち寄りました。
宇土古城とは
西岡台と呼ばれる標高約39mのちょっとした丘にある中世の城。平安時代の1048年に宇土城が造られたと伝わっていますが、室町時代には宇土氏、名和氏が宇土城主になったという。
宇土氏は現在の宇土市街地周辺だった「宇土庄」の荘官で、文亀3年(1503年)に守護職の菊池氏との争いで敗北して滅びました。
名和氏は室町初期に古麓城を本拠していましたが、文亀4年(1504年)に八代から宇土へ移り、宇土氏滅亡後に宇土古城に入城しました。その後、城は奪われたり奪ったりされましたが、豊臣秀吉の九州平定後で降伏した名和氏は所領を没収され、小西行長が肥後3郡を与えられ、宇土古城の東に新城(宇土城)の築城を計画し、歴史の舞台は宇土城へ移っていくのです。
宇土古城 縄張図
縄張図が手に入らなかったので宇土古城の駐車場にあった案内版より。
宇土古城で現在確認ができるのは城門が復元されている主郭とされる通称「千畳敷」があるエリアと「三城(さんのじょう)」のエリア。
千畳敷側は主郭のまわりを横堀がぐるりと囲み、東から北にかけて数本の竪堀も発見されています。
大手と伝わるエリアは城主や家臣が生活していたと推定されているけれど、すぐ近くに「三角道」という古道が通っていることからも大手があったとしてもおかしくはない位置だったりする。
千畳敷、三城の西側の長い土塁と横堀跡、大手を囲んだ旧三角道が城域だったとしたらかなり広いのだけど、「城域」というより民衆も生活する「城下町」も含まれていたのであろうか。
今回行ったのは千畳敷のみだったのだけど、三城のほうも建物跡や土塁跡が整備されているそうです。
宇土古城へ
駐車場に車を停めて探索開始。登り口に案内版があり、宇土古城の歴史と縄張について解説されている。
登り口は整備されていて段状になっています。
案内板によると、案内板に向かって左側に竪堀があるようだが、階段の横にあるうっすら低くなっているところ、これが竪堀???草も生えていてよくわからない。
万事この調子だと判別つかないなぁ。
丘陵地に築かれているということで、山城のように登った感はないけど、振り返って見るとそれなりに高低差があって、しかも段々に平面が築かれている。
主郭をめぐる内堀
勢いのままに階段を上っていくと主郭の城門が見えた!
が、整備されているということだけど
あ、あぁぁぁぁ・・・。こういうことか!
土橋の両サイドに堀がぐるっと主郭を囲むようにめぐらされていて、土橋の先には城門、そして両サイドに柵。
すごく雰囲気は伝わるんだけど。
そうきたか・・・。
土留めも兼ねているんだろうけど、堀も土橋もしっかりコンクリートで固められてしまっているという衝撃的な整備の仕方。
でもまぁ、城門の両サイドの切岸感、土橋の両サイドの横堀感。これはいいぞ。
コンクリートで固められてしまっているものの、宇土古城の堀跡からは面白いものが見つかっています。
見どころ:城破の痕跡 大量の投げ込まれた石塔
城門に向かって左側の堀からは発掘調査で大量の石塔が見つかったそうな。
千畳敷と呼ばれたエリアの城門の虎口付近の内堀では五輪塔や宝篋印塔などの石塔、墓石が出てきたそうです。しかも「投げ込まれた」」状態で、破城する際の城破り(しろわり)の儀式によるものと推測されています。破城する際に「城の生命を断ち切る儀礼や儀式」と考えられています。
破城の際の儀式については佐敷城の追手門跡でも検出されてましたね。
佐敷城の続きです。本丸、二ノ丸を散策し、三ノ丸に行く前に先に追手門を確認しにいくことに。 通常の見学ルートは本丸、二ノ丸を見て三ノ丸まで降りれば終了なのですが、雨の中でも城好き女子3人。縄張図頼りに案内板には無かった南出丸、北出丸まで[…]
宇土古城の城破りについてのこの発見は、石塔の投げ込みがあったのは当時九州では初の発見であり、全国的にも数例しかないとのこと。現在は保護のために埋め戻されていますが、一部は風化を防ぐために石材強化処理を施して野外展示で見られるようにしてくれています。
確かに石塔のような石がごろごろしていて、さすがにここに降りて歩き回る気にはなれなかった…。
見どころ:未完成の堀跡
宇土古城の内堀の特色のもうひとつは、未完成の堀底が検出されたということ。城門に向かって右側、方角でいうと北側は、堀底がでこぼこしている。これは未完成の堀の工事跡だそうです。
これは「小間割(こまわり)」と呼ばれる工区分けの跡、もしくは堀の添削工程における過程であるそうです。
確かによく見ると「でこぼこ」しているのがわかる。
この未完成の堀跡も、中世城郭では当時は全国初となる発見だったそうです。ふつうに土だったら掘り進めていけるだろうけど、硬い岩盤なのかな。それを掘り進めるための計画的な工事工程だったのだろうなぁ。
なぜ工事が途中で終わったかはわかっていませんが、宇土城に移るのにタイムアップだったのであろうか。
小間割は主郭に上がって上から眺めると「区画に分かれている」ことがよくわかるので、上から見るのも忘れずに。
そしてこの内堀を北側(城門の右側)からぐるっと一周まわろうとすると、竪堀が現れます。ちょうどいい感じで横堀と竪堀がクロスするところに橋がかけられている。復元具合がとても親切だ。
あぁぁぁ。コンクリートで固められていて風情がなくなってしまって、逆によくわからない。
でも、横堀はしっかりわかるようになっていて、この角度は良いぞ。
主郭を囲む内堀を東側から北側までぐるっとまわり、北側の一編にさしかかったところ。このカーブがたまらん!
外堀跡
宇土古城の主郭・千畳敷で現在わかりやすいのは前述の内堀なのだけど、平場になっている部分から外堀跡が検出されました。
草むらではなくコンクリート時期になっている部分が外堀跡。幅は約2~4m、長さは約130m、深さは約1.5m。千畳敷の虎口付近で外堀と内堀はつながっていたという。
これだけだとピンとこないと思うので内堀、外堀がわかるように撮影してみた。
左側のコンクリート部分が外堀、右側の掘られているのが内堀。こうしてみるとたしかに中世の城っぽい。
主郭のまわりを歩いているだけでも面白かったけど、一周ぐるっとまわって主郭へ。
“千畳敷”は確かに広かった! 宇土古城の主郭へ
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