新府城② 搦め手側の巨大な堀も見逃せない!

前述したルートをおススメする理由。
乾門桝形を出たら、これがまたすごかったんです!

乾門桝形虎口から脱出

乾門の桝形虎口の土塁に登ってその先を眺めて見たらすごかった!

新府城 北側の水堀
乾門桝形虎口から北側の水堀を眺める

高低差ぁぁぁ!
だけでなく
その下には水堀ぃぃぃ!

ここにきて水堀かぁ。今まで見てきたものとは様子が変わってきたぞ。

新府城 イメージ図
イメージ図

イメージ図の最下部にあるのが乾門。乾門を出てぐるっと土橋状になったところを渡ると「現在地」と書かれている平場に出るのだけど、ここまでの高低差がすごい。

新府城 空堀と土橋
堀と土橋

写真では水が溜まっている部分が見えないので空堀に見えるけど、とてつもない深さの水堀です。
ぐるっとまわっているこの通路の奥はがくんと落ちているので、土橋の役割だよな。
乾門の桝形から横矢はかけられるし、狙いたい放題じゃん!

新府城 水堀
巨大な水堀

まるで近世城郭並みの土木量!
お見事だね。虎口を出たら大きな水堀。この帯曲輪からの高低差!

ここだけ見るとほんとうに近世城郭みたいで、他の作りと異なって見える。武田ではなく徳川の改修か?と考えさせられてしまう。

 

新府城 北側の堀 案内図
北側の堀の案内図

案内によると、乾門を出てすぐの西堀は水堀だったけど、そこから出構に向かっての中堀は後世に湧き水を田んぼとして使ったりなどしたため、よくわからなかったそうです。発掘調査で山際から埋もれていた深い箱堀が見つかり、しかも帯曲輪の折れと同じように折れて築かれていたそうです。
帯曲輪は堀川から見ると木が茂っていてよくわからないけれど、細かく折れが入っていたのね。それに合わせて深い堀も曲がっていたとは!

新府城 西堀
西堀(水堀)

帯曲輪の斜面にそって築かれた深い堀と出構のところの浅い湿地帯の一角は、整備の際に当時の様子がわかるように復元されいているけれど、乾門の虎口を出てすぐの深い西堀は手を付けず発掘調査もせず、木を伐採しただけとのこと。
ぜひ、当時の面影が残るこの深い水堀を上から眺めてください!

新府城 西堀
奥に西堀が広がる

 

出構跡

西堀をあとにし、堀に沿って歩く。

新府城 北側
北側の堀沿いを歩く

前方にぽこっと突き出たものを発見!

新府城 西出構
西出構

帯曲輪に沿って深い箱堀が掘られていたことは発掘調査でわかっているけれど、出構周辺はその後、湧き水が出ることから田んぼとして利用されていたという経緯もあり、どうだったか?という詳細はわからないそうな。それでも湿地帯であったことには変わりなく、いま、まさにその湿地帯の跡をずぶずぶ入って歩いているわけです。

新府城 出構跡
出構跡 案内図

新府城の駐車場にある案内図。図の上が乾門で、堀に沿って歩いてくるとぽこっと2か所、出構が突き出ている。

 

新府城 西出構
西出構

 

新府城 出構の案内
出構の案内

 

そしてこちらが駐車場から近いところにある東出構

新府城 東出構
東出構
新府城 東出構
東出構

光が足りなくて、ぶれてる。限界だ・・・。
この1年後に東出構と帯曲輪をまわって素敵な写真を撮っているので、東出構はこの後にアップする記事の写真を見てほしい。

新府城に到着したときは日暮れ寸前だったのでこんな感じで撮影できた!

新府城 東出構
東出構

出構はきれいに整備されていて、いい感じで箱型になっている。

出構は考えようによっては堀に対して横矢が掛けられるようになっているように見え、鉄砲で狙った鉄砲陣地という説もあるが、作った意図はわからないという。
長篠の戦で武田勝頼は織田信長・徳川家康連合軍に鉄砲隊にやられているので、その痛い経験をもとに作られたとすれば、「水堀の高さを調節するダム的な機能」というよりストーリー性があっていいなぁ。

 


2020年2月に訪れた時の新府城編はこれにて終了。

新府城は家臣を引き連れての本拠移転ということで、七里岩台地上に築かれた新府城の周りにもあるけれど、七里岩台地の両サイドの下ったところにも屋敷がいっぱい。

とはいえ、江戸時代の図からは新府城の周りに武田の重臣たちの屋敷がなかったことがわかっている。
生粋の武田の重臣たちは本拠移転には反対で、勝頼についてこなかったという。

武田勝頼の祖父である信虎が川田館から躑躅ヶ崎館に本拠を移したときには反乱が起きていて、勝頼が新府城への移転を決意した際には武田の重臣であった穴山梅雪らと対立。本拠を移すって家臣にとっても一大事ということなのね。

未完成の新府城では戦えないと覚悟を決めた武田勝頼が小山田信茂の勧めで岩殿城に向かったがそこで裏切られ孤立無援の状態に。
天正10年(1582)3月11日に勝頼夫人、長男信勝とともに武田勝頼は37歳で天目山にて自害。
ここまでの流れが怒涛の勢いすぎてまるで階段の上から建てたドミノが上から一気に崩れていくよう。

かつては織田信長でさえ恐れ、上杉謙信から一目置かれた甲斐武田氏はこうして滅亡。栄枯盛衰の文字通り、栄えて衰えていく様のギャップが激しければ激しいほど、惹かれてしまうワタシなのでした。

 

新府城 散策ログ

今回の散策ログです。緑が起点で本丸直登の真田丸階段を登り切ったところからスタートしています。

新府城 散策ログ
新府城 散策ログ

駐車場から1時間10分。充実した散策でした♪

 

新府城

  • 住所:山梨県韮崎市中田町中條
  • アクセス:JR中央線新府駅から徒歩約20分
  • 営業時間: –
  • 駐車場:あり 30台 新府公園駐車場

 

武田氏滅亡後、そして織田信長の死去後の関東・甲信越で勢力ががらっと変わっていく様はとてもドラマチック。
この順番でまわると、北条が陣取った城→徳川が陣取った城と位置関係がわかって面白いです!
笹尾塁(北条)
若神子城(北条)
能見城(徳川)
新府城(徳川)
武田信玄が死去してすぐに織田信長も本能寺の変で死去。その後の混沌とした甲信越地方の徳川、上杉、北条の勢力争いについては平山優先生の「天正壬午の乱」が詳しいです。各勢力がどのように攻め入ったかの臨場感を感じながら読み進めることができます。
ちょっと難しいということであれば、能見城の発掘報告書に平山先生が寄稿しているので、そちらから読んでみることをお勧めします。

 

武田の城めぐり おすすめな本


武田氏滅亡
辞書のような分厚さの本に、武田氏が滅亡に至るまでや、どのように追い込まれていったかが濃縮されている一冊。
管理人もただいま平山先生の講座を受けつつ勉強中!
なお、大石泰史先生の「今川氏滅亡」と合わせてKindleで【2冊 合本版】『武田氏滅亡』『今川氏滅亡』として配信中。2冊買うならこのKindle合本版だと安くなるのでおすすめです!


最後にもう少し、新府城ではないですが「萌え語り」をお付き合いください。

 

>> 甲府が舞台のあの朝ドラのセットがあります!

新府城 乾門桝形虎口
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