2020年2月に行った山梨県北杜の城めぐり。新府城の続きです。
若神子城、古宮城、谷戸城、深草館、笹尾砦とまわり、日が落ちる直前に新府城へ。七里岩の台地に築かれた新府城にはもちろん外灯はなく、日没との戦い!ということで写真は暗いですが、2021年4月にまた訪ねているので、明るい時の写真はこの後に更新する記事と合わせて見てくださいな!
新府城の本丸・大手桝形虎口、巨大な丸馬出編はこちらから。
2020年4月。山梨県の北杜地方の城めぐりに行きました。 若神子城から入り、古宮城、谷戸城、深草館、笹尾砦とまわり、笹尾砦から七里岩を眺めたうえでのクライマックスは新府城へ。巨大な丸馬出に圧倒されました。徳川の改修も入っていると考えられる[…]
二ノ丸
巨大な丸馬出の周りをぐるっとまわって堪能した後は、来た道を戻って二ノ丸へ。二ノ丸から南側に馬出があったのだけど、それはガサ藪で奥までは行けず。
二ノ丸の土塁がしっかり残っているのでそれだけでもじゅうぶん見ごたえがある。
二ノ丸は本丸の次に高い位置にある曲輪。東西55m、南北75mの長方形をしていて、曲輪の周りは土塁がめぐらされています。
二ノ丸は武田勝頼の息子の信勝あるいは奥方が住んでいた場所と想定されていたというけれど、平成10年の発掘調査では明確な建物遺構や庭の遺構は出てきませんでした。その代わりに釘やかわらけ(素焼きの小皿)や陶磁器は出てきたそうな。ますますこの曲輪の使われ方が謎です。
さらに奥へと進む。周りは藪がすごいけれど、散策路は整備されているので歩きやすい。
井戸跡
二ノ丸と乾門桝形虎口の間にある巨大な井戸跡。これはでかい。
春日山城の本丸の裏にある井戸と石垣山城の井戸の中間くらいのサイズ感。
単純に井戸を掘っているわけではなく、土塁で一部を囲んでいる井戸。湧き水や雨水を溜めていたと考えられています。
発掘調査では現在の地表面からさらに4mを掘ったものの、それでも底にはたどりつかず、これ以上は危険すぎるということで断念したそうです。
発掘調査後は斜面保護のために植栽し、井戸の中にも入れるようになっています。
木橋の橋台
巨大な井戸を後にし、さらに進むと目立たないところに説明版が。
乾門の桝形虎口の手前、東側にある馬出?のような一画。まるで二重馬出のようだ。
写真の中央から左にかけて空堀があるのだけど、空堀を挟んで左右に橋台があって、木橋がかかっていたそうな。
図にすると↓こんな感じ。
木橋がかかっていたところの「_|」字型の「_ 」部分の空堀が手を広げた右側に広がっています。
そして左側にも空堀があり、ちょうどここは土橋状態になっている。
歩いていると気づきにくいので、新府城のパンフレットを参考に探してみてくださいな。
乾門 桝形虎口
かつては搦め手口と呼ばれていましたが、本丸からの方角「乾」から乾門(いぬいもん)と呼ぶことになったそうな。
発掘調査の結果、乾門の桝形虎口には城の外側に2本柱の門、城の内側に6個の礎石の上に門があったことがわかっています。そしてこの内側の門が建っていた礎石は焼け跡が残っていて、門柱の焼けた木材(炭化材)が見つかっていることから、新府城に自ら火を放ったというエピソードの裏付けになっている。
乾門のそばにある案内板には2つの門の復元想像図もあります。
乾門桝形虎口の内側から外側を眺めたところ。復元された礎石と修復された土塁が素晴らしい。
内側の門の6つの礎石が発掘調査をもとに復元されているので、門が建っていたイメージが湧きやすい。こういう復元の仕方はわかりやすくていいね!
とくにこの写真は門のイメージが伝わると思う。
乾門のところの桝形内は平行に門があるのだけど、喰い違いになっている。
躑躅ヶ崎館の西曲輪、松代城の二ノ丸と同じですな。
このアングルからなら喰い違っているのがわかるかな?
新府城の駐車場が整備されてからは東出構、西出構を通過し、大きな水堀を眺めながらこの乾門のところの桝形虎口を通って城内に入るように導線が造られているけれど、以前は本丸の直登階段を登って巨大な丸馬出を見れば満足して帰ってしまい、搦め手側の乾門のほうには来る人もいなかったようで、この乾門桝形は知る人ぞ知るテクニカルな一画でした。
個人的には、↑この新府城のパンフレットに赤矢印で追記した、本丸への直登階段を登らず17号に沿ってしばらく歩き、三ノ丸に続く道から城内に入って大手桝形と丸馬出を見る。三の丸から二ノ丸、本丸に入って井戸を越えて木製橋台の跡を眺めてこの乾門桝形虎口に出るルートがおすすめだと思います。
>> 乾門桝形虎口を最後にまわる。その理由は?