- 2022年4月23日
- 2023年10月17日
笹尾塁 一の郭から眺める七里岩台地と富士山が絶景!
天正壬午の乱関連の城で新府城、能見城、若神子城ときて、最後は笹尾塁をご紹介。 一の郭から新府城がある七里岩台地が伸びているのが見えるんです。 あぁ、天正壬午の乱のときには、ここ(笹尾塁)には北条が詰めていて、この先には徳川が陣取っていた能見城や新府城があったのね。と思うと感慨深い。 とにかく景色が良 […]
笹尾塁とは、西に釜無川が通る舌状台地に築かれた城。『甲斐国史』では「篠尾塁跡」とも記録がある中世の塁跡。
塁とは土を積み重ねてつくった小さな城などの構築物で、規模的には砦といったところ。ゆえに「笹尾砦」と呼ばれることもある。
築塁年代は不明。新羅三郎義光(源義光)が他国からの侵攻に備えて築かせた砦とも伝わるが確証はない。
武田信玄の父である甲斐守護の武田信虎が甲斐を統一する際に抵抗勢力(諏訪氏など)と対峙する際に笹尾塁を整備したと伝わる。(結局は諏訪軍の侵攻によって戦わずに陥落したそうな。)
武田晴信(信玄)の時代には狼煙台が置かれ、本城である躑躅ヶ崎館と支城の中継点の役割を担いました。
武田氏滅亡後の天正壬午の乱では、南下してきた北条氏が入ってその際に整備したといわれている。
主郭は南端にあり、北から南にかけて六の郭、五の郭・・・と連格式に曲輪が並んでいたが、現在、城址として整備されいているのは二の郭と一の郭のみ。
三の郭付近が駐車場となっていて、見どころは一の郭の西側から南側をまわらせている土塁、そして一の郭から見える七里岩台地と富士山!
七里岩台地のずっと先の方向には能見城、新府城があります。目視することはできないけれど、天正壬午の乱の際には、この先に徳川が陣取っていた能見城、新府城があるんだ・・・、と思うと感慨深いです。
四の郭以降は城址としては整備されておらず、藪だったり畑だったりします。
武田信玄が死去した後の天正壬午の乱で北条氏が入るが、位置関係は下記の図でいうと、黄枠が笹尾塁、緑枠が若神子城、青枠が能見城、赤枠が新府城。若神子城は北条と対した徳川方の能見城とは目と鼻の先にあった。
山梨県韮崎市 能見城跡 送電線鉄塔建設に伴る埋蔵文化財発掘調査報告書
P.45 第9図 天正仁後の乱関連城郭と地域概況図(一部推定を含む)より
笹尾塁と躑躅ヶ崎館までの主要な城をマッピング。台地上に狼煙台を設け、躑躅が崎までの狼煙による伝達ネットワークを築いている。
※新府城は武田勝頼が築いたので武田信玄の時代の城ではないが、立地の把握のために記載。
小渕沢教育委員会 笹尾塁跡発掘調査団
P.16 笹尾塁跡概念図より
笹尾塁の御城印はありません。
天正壬午の乱関連の城で新府城、能見城、若神子城ときて、最後は笹尾塁をご紹介。 一の郭から新府城がある七里岩台地が伸びているのが見えるんです。 あぁ、天正壬午の乱のときには、ここ(笹尾塁)には北条が詰めていて、この先には徳川が陣取っていた能見城や新府城があったのね。と思うと感慨深い。 とにかく景色が良 […]