天正壬午の乱関連の城で新府城、能見城、若神子城ときて、最後は笹尾塁をご紹介。
一の郭から新府城がある七里岩台地が伸びているのが見えるんです。
あぁ、天正壬午の乱のときには、ここ(笹尾塁)には北条が詰めていて、この先には徳川が陣取っていた能見城や新府城があったのね。と思うと感慨深い。
とにかく景色が良くて、ところどころにベンチも置いてあるので、ちょっとした散策ついでにお弁当を持ってランチするのにもおすすめです。
笹尾塁の基本情報は笹尾塁 基本情報からどうぞ。
笹尾塁とは
『甲斐国史』では「篠尾塁跡」とも記録がある中世の塁跡。塁とは土を積み重ねてつくった小さな城などの構築物。その規模感から「笹尾砦」と呼ばれることもある。
築塁年代は不明。新羅三郎義光(源義光)が他国からの侵攻に備えて築かせた砦とも伝わるが確証はないのは若神子城とも同じ。
武田信玄の父である甲斐守護の武田信虎が甲斐を統一する際に抵抗勢力(諏訪氏など)と対峙する際に笹尾塁を整備したと伝わる。(結局は諏訪軍の侵攻によって戦わずに陥落したそうな。)
武田晴信(信玄)の時代には狼煙台が置かれ、本城である躑躅ヶ崎館と支城の中継点の役割を担いました。
武田氏滅亡後の天正壬午の乱では、南下してきた北条氏が入ってその際に整備したというが、それも若神子城と同じですね。
小渕沢教育委員会 笹尾塁跡発掘調査団
P.16 笹尾塁跡概念図より
笹尾塁の遺構とみどころ
七里岩台地の西端の舌状台地の先端にある。南端から一の郭、ニの郭と連郭式に続き、一の郭に入ると、崖側の南から西にかけてぐるっと土塁がまわり、これがまた素晴らしい。
そして一の郭から見える七里岩台地とその先に見える富士山が絶景!
天正壬午の乱の際には、七里岩台地の先に徳川が陣取っていた能見城、新府城があるんだ・・・、と思うと感慨深いです。
笹尾塁へ
三の郭付近が駐車場になっていて、二の郭、一の郭まではすぐです。
駐車場から北側は北側は畑や田んぼ、雑木林になっている。写真のトイレの奥の森の部分が縄張図的には四の郭か?
二の郭
まずは第一の堀。堀を横目にぐるりとまわらされて歩かされる。
二の郭に入って後ろを振り返るとこんな感じ。ゆるい坂道状になっていて右側にカーブしているのがわかるかな?
一の郭とニの郭の間は土塁が切ってあって、なおかつこの先が西側に落ちて竪堀になっているようだ。
一の郭
一の郭には南端から西にかけて規模の大きな土塁がまわっている。
ベンチもあるのでちょっとした休憩もできて良い。
笹尾塁→若神子城→能見城→新府城と徐々に新府城へ近づいていくと、距離感や位置関係がよくわかる。北条がどこまで迫り、どこからが徳川だったかという臨場感がじわじわと伝わってくるのでおすすめです。
天正壬午の乱関連の城は他にもありますが、新府城に行くならぜひ笹尾塁、若神子城、能見城のこの3城はぜひ合わせて行くことをおすすめします。
<笹尾塁 終わり>
この順番でまわると、北条が陣取った城→徳川が陣取った城と位置関係がわかって面白いです!
①笹尾塁(北条)
②若神子城(北条)
③能見城(徳川)
④新府城(徳川)
ちょっと難しいということであれば、能見城の発掘報告書に平山先生が寄稿しているので、そちらから読んでみることをお勧めします。
天正壬午の乱 おすすめな本
天正壬午の乱
武田信玄の死去、織田信長死去後の徳川、北条、上杉による甲信越と北関東の覇権争いについて事細かに解説。!「天正壬午の乱」の名づけ親によるこの一冊は情報量がすごい!じっくり学びたい人におすすめ。ワタシのバイブルです!