山梨県の城ということでこれまで取り上げたのが新府城、隠岐殿遺跡。
・・・ときたら次はこの城を推したい。新府城とともに天正壬午の乱を語る上で重要、でも謎が多い能見城です。
能見城の基本情報はこちらをどうぞ!
能見城とは
新府城の北側の守りとして武田勝頼によって築かれたとされるが詳細は不明。
みどころは能見城の西から北にかけて築かれている長塁。
新府城に武田勝頼が入った際に合わせて作られたということも考えられるけど、武田氏滅亡後天正壬午の乱で、若神子城に入った北条軍に対するために、新府城に入った徳川家康が長い防塁を築いたという説が有力。
この長塁は「諸国古城之図・新府城跡」(山梨県韮崎市 能見城跡 送電線鉄塔建設に伴る埋蔵文化財発掘調査報告書にも掲載されている)にも能見城とともに描かれていて、新府城と非常に近い場所に築かれていたことがわかるのだけど、この長塁がまたすごい!
- 西側には土塁の合間に桝形虎口
- 北側には長塁が広がり桝形的な空間もある。下部はコンクリートで覆われているけれど切岸も見事!
- 西側には西郭、北側に中郭、さらに北東に伸びたところに東郭、東砦と呼ばれる兵の駐屯地がある
殺る気、いや、ヤル気、ありまくり。
これが残っていればかなりの「見どころ」になっていただろうけど、西側は宅地化されて町中にちょこっと残るだけだったり、私有地だったりするので見つけるのは難しい。北側は藪藪していて中郭まではなんとか判別がついたけれど、そこから北東に伸びた先までは行けずじまいでした。
訪れる際には、縄張図(能見城測量図)持参で、「諸国古城之図・新府城跡」を事前に見ておくことをおすすめします。
能見城の遺構とみどころ
能見城の山頂に行く間は遺構は残っていないが、能見城の西から北東にかけて大きく伸びた長塁の痕跡が残る。
- 西側に伸びた土塁の合間に桝形虎口の土塁が国道を突っ切る形で一部残っている。
- 北側の藪をかきわけていくと切岸がすごい。また、土塁の合間に桝形的な空間もある。
能見城へ
新府城から車ならすぐ。穴山駅のすぐ向かいにある駅近物件な能見城。
新府城から見て北側にあり、北の守りを担った城です。
下記の図でいうと、赤枠が新府城、青枠が能見城。とても近いところにあることがわかる。
山梨県韮崎市 能見城跡 送電線鉄塔建設に伴る埋蔵文化財発掘調査報告書
P.45 第9図 天正仁後の乱関連城郭と地域概況図(一部推定を含む)より
今回の目的は能見城に「登る」よりも、能見城の西側と北側に残る防塁を見ること!
能見城の防塁は西側から北側にかけて残っていますが西側は宅地開発で断片的に残り、北側が土塁と堀が残っているのだけど、北側は藪藪していて判別はかなりハイレベル。
山梨県韮崎市 能見城跡 送電線鉄塔建設に伴る埋蔵文化財発掘調査報告書
P.19 第8図 能見城測量図(1/4000)より
能見城 防塁を探して歩く
下記の図は発掘資料の測量図に書き加えたもの。今回は下記の3つのポイントを中心にあわりました。
- 能見城の長塁の西側の桝形虎口
- 北側の長塁の桝形
- 北東側の中郭
山梨県韮崎市 能見城跡 送電線鉄塔建設に伴る埋蔵文化財発掘調査報告書
P.19 第6図 能見城防塁 概要図(1/4000)より
能見城の防塁探しのスタートは穴山駅から。こじんまりとした駅舎がかわいい。
あの山が能見城だ!
能見城は宅地化のために工事が入りましたが結局宅地にはならず、現在は山頂に送電線の鉄塔があるのみ。新府城とセットで推せるのに。残念だなぁ。
まずは新府城の西側を歩く。穴山駅周辺から西郭のほうを眺められたのだけど、私有地だったりだいぶ遠くて写真で撮ってもよくわからなかったのでその写真は割愛。西側の桝形虎口跡からの紹介です。
能見城防塁 西側 桝形虎口跡
発掘調査報告書の「P.19 第6図 能見城防塁 概要図」にある西側の桝形虎口を目指して歩く。国道603号で分断されてしまった西側の桝形虎口は、現在は「喰い違い虎口」のように見えるけど、「諸国古城之図」によると桝形だったようです。
能見城の山頂に向かう道ではなく、新府城から来る際に通った国道603号を南に向かって歩くと住宅が途切れる一画が。603号でかつての桝形虎口は左右に分断されていていて、桝形虎口を突っ切ることになる。
土塁が断片的に残っているのですが、自分が撮った中に説明できる写真が無かったので、Google Mapのストリートビューでお届けします。
まさに桝形虎口を直線で突っ切っています!
この道の右側(西側)と左側(東側)に桝形虎口の土塁の名残が残る。
まずは写真でいう右の「西側」から。ぽっこりとした土塁が見えてきた。
上のほうは崩されているものの、幅も十分にあり、推測するになかなか大きな土塁だったんだろうな、
この土塁はさらに北西の方に伸び、線路の先のさらに西側まで西郭が広がっていたようです。
道の反対側には桝形虎口の東側の土塁の名残があります。
土塁が家の仕切りになっている!
「諸国古城之図」によると、この土塁がまっすぐ能見城側に伸びていき、能見城の周りを囲っていた西側の土塁にぶつかっていたようだ。
これ以上は近づくことはできないので、能見城の北側の長塁を探しに行きます。
能見城防塁 北側 桝形へ
能見城の山頂までの道は舗装のあるなしにかかわらず、このくらいの勾配の道をだらだらと登ります。
合間の道は撮影していなかったのでこちらもGoogleストリートビューから。遺構も特にないので、山登りが嫌いなワタシには辛い。遺構があれば急な坂でも直登でもエンジンかかって登るんだけど・・・。
途中で山頂への道を外れて北側へ。能見城の長塁探しへ繰り出す!
藪をかきわけていきますが、ところどころ起伏があることがわかる。北側にまわりこんで、桝形らしき区画が現れた。
山梨県韮崎市 能見城跡 送電線鉄塔建設に伴る埋蔵文化財発掘調査報告書
P.19 第6図 能見城防塁 概要図(1/4000)に書き足し
ところどころ、起伏があって土塁らしきものが残る。
歩いてきた後ろを振り返る。写真の左側が能見城。上部はコンクリートで固められているけれど、良い切岸だ。
能見城防塁 中郭
さらに歩いていくと大きく左に曲がることになり、ちょっと複雑なつくりをしているエリアに出る。
兵の駐屯地であったという中郭です。
これがまた複雑な構造で、仕切るような土塁があったり、段々となって少しずつ下がっていくようになり、さらに右に回り込むことになっているのだけど、もう藪ですごいことになっている。写真であとから振り返ってもわけわからない状態なので、写真で雰囲気が伝われば…。伝わらないか。
もう、人が立っていないと凹凸すらもよくわからない。
訪れたのが4月でだいぶ芽吹いてきている時期だったので、2,3月にもう一度行ってみたい。
今度は頭の中に概要図が入ったので理解できるはず!
能見城 山頂
そして最後は能見城の山頂へ。まだ行ったことがなかったので、一度は行っておかないとね。
「何もないよ」とは聞いていたけど、えぇ。遺構は何もなかった…。現代的な「看板」での「能見城」という城址碑(?)のみ。
同じくお初だったお仲間さんは「苦労して登ってきたのにこれだけ・・・」と崩れ落ちてました。
写真にある石碑は能見城の説明ではなく、「守屋一族発祥の地」と書かれた石碑です。
石碑によると、武田信玄の家臣である守屋氏がこの地を治めていたというが、守屋氏については詳細がわかっていないようです。そして武田勝頼が築城した説より前から能見城はあったとも記されているものの、この地は穴山氏館からも近く、穴山氏館の詰め城だった説もあり、調べれば調べるほどわからなくなる城でした。
(でも長塁は見ごたえあるよ!)
<能見城 終わり>
この順番でまわると、北条が陣取った城→徳川が陣取った城と位置関係がわかって面白いです!
①笹尾塁(北条)
②若神子城(北条)
③能見城(徳川)
④新府城(徳川)
ちょっと難しいということであれば、能見城の発掘報告書に平山先生が寄稿しているので、そちらから読んでみることをお勧めします。
天正壬午の乱 おすすめな本
天正壬午の乱
武田信玄の死去、織田信長死去後の徳川、北条、上杉による甲信越と北関東の覇権争いについて事細かに解説。!「天正壬午の乱」の名づけ親によるこの一冊は情報量がすごい!じっくり学びたい人におすすめ。ワタシのバイブルです!