今城 土塁に土橋、切岸とコンパクトでも見ごたえのある城 ~可児の山城めぐり①

2021年4月。クラブツーリズム主催旅行で岐阜県可児市の山城をめぐってきました。
最初に訪れたのは今城。城の規模はコンパクトだけど曲輪の区画がとてもわかりやすく、40分もあればまわれてしまう。比高もさほどないので気軽に散策でき、住宅街の中にあるので遭難することもない山城です!

今城とは

今城は天文年間(1532~1555)頃に地元の豪族である小池家継が築いたと伝えられている。美濃金山城森長可が入城すると美濃金山城の支城となり、その時に小池氏は今城を退去して農民になったとされています。

縄張図は『可児歴史』の第一巻に掲載されているものが「山城のまち可児市」の山城紹介パンフレットにも掲載されているのだけど、縄張図ではなく「山城のまち可児市」の紹介パンフ掲載のイメージ画像がわかりやすいのでこちらを転載。

今城 案内図
今城 案内図

山城のまち可児市 今城パンフレットより転載

 

今城の遺構とみどころ

  • 土塁堀切曲輪が分けられていて、それが今もはっきりと判別できる。
  • 特に三の丸から眺める本丸切岸が見事で、ほれぼれするほど!
  • 二の丸本丸の間には土橋がある!
  • 2021年4月当時は入ることはできなかったけど、三の丸と二の丸の間にある腰曲輪から場外へ出る桝形虎口跡も残っている。
  • 三の丸には井戸もちゃんとある。

と、小さいながらも機能的な城で、そのパーツがどれもわかりやすいのです。

 

今城へ

「今城跡」の幟があるところから入っていく。整備されているので歩きやすいです。
今城 大手門跡
大手門跡
「小池兵部小輔藤原家継居城跡」という図が案内板に掲載されていて、それによるとこの現在地は御殿(三の丸)に通じるもののようだけど、腰曲輪に虎口が設けられたのは小池氏が退去した後の時代なのだろうか?
今城 案内図
今城 案内図

なお、この入口周辺には「大手門」という案内がありました。いつの時代でいう「大手門」なのだろうか。

三の丸

現在の「今城 入口」から入ると三の丸。資料によっては「御殿跡」とも。
入るとすぐに目にとまるのが井戸跡
今城 井戸跡
井戸跡
明治24年の地震の時に崩れてこの形になったと伝えられています。今も水が溜まっている。
今城 井戸跡
この細長く広がる三の丸の上は本丸なのですが、城の規模に対してすごい切岸だな!
今城 三の丸
三の丸から眺める本丸の切岸
今城 三の丸
三の丸の散策路

散策路に沿って歩いて行くと、腰曲輪との間に桝形虎口跡が!

桝形虎口跡

この桝形虎口から先は私有地になっているようで侵入禁止。

今城 桝形虎口
桝形虎口
この桝形虎口はその形状から森氏が入ったタイミングで築かれたと考えられるらしい。
縁の部分がうっすら高まっているようで、これが土塁なら桝形虎口かな?と思われるけど、畑や農作物を育てるためにだいぶ変わっているのでワタシには判別は難しかったです。

腰曲輪

三の丸、桝形虎口ときてその先に腰曲輪が広がる。腰曲輪には入ることはできない。
小池氏の墓と言われている五輪塔の看板がありますが、その五輪塔は写真の左奥の部分にちょこっと頭が見えている。

今城 腰曲輪
腰曲輪

縄張図上では、二の丸に入るには腰曲輪に入ってぐるっとまわっていくようだけど、整備された散策路を登る。ここを登っていくと二の丸と本丸の間の土橋に出ます。



二の丸

二の丸に到着。縄張図上でも可児市の復元図でも土塁に囲まれているわけではなく、フラットな曲輪になっている。
今城 二の丸
フラットな二の丸の曲輪
この二の丸はかつて、小池家継の屋敷があったといわれているようだ。
二の丸の北側、本来の二ノ丸への入口へ行ってみる。
この写真の先へは行けないけれど、この下っているところを降りて左側にぐるっと回ると腰曲輪に出るわけです。
今城 ニの丸の虎口から腰曲輪を眺める
ニの丸の虎口から腰曲輪を眺める

写真中央付近に登ってくるときに見えた腰曲輪にあった五輪塔が写っている。

二の丸に戻って土橋を渡り、本丸へ向かいます。
今城 土橋
二の丸と本丸の間の土橋を渡って本丸へ

土橋を上がっているときには本丸と二の丸はさほど高さはないように見えるけど、本丸の土塁に登って眺めてみると、けっこうな高低差があることに気づく。二の丸が丸見え!

今城 本丸から二の丸を眺める
本丸から二の丸を眺める
それでは本丸にいざ、参ろう。
>> L字型の土塁に囲まれた本丸へ
今城 大手門跡
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