本丸散策はつづきます。本丸にあった建物や用途の詳細はわかっていないものの、いくつか当時の名残があるものがあります。
本丸
井戸跡
城内の案内板によると、本丸からは井戸が4か所見つかり、そのうち写真の井戸を含む3つは細川藤孝による城の改修時に作られたものだそうです。
井戸は底に太い木を井桁(いげた)に組み、その上に円形に自然石を積み上げたもので、石仏・五輪塔なども石材として利用しています。直径は0.9mで、深さは約3mあります。発掘調査中も多くの水が湧きだしていました。
本丸内 井戸 案内板より
なんと、井戸の建設時にも石仏や五輪塔を利用したのか!
現代の感覚でいうと罰当たりだし、ちょっと気味が悪くてそのような転用石を使った井戸の水は飲みたくないところだけど、どれだけ切羽詰まっていたんだろうと、細川藤孝が気の毒にも思う。
本丸内では排水施設が整備されていたそうで、川にも近いし、堀もある、さらに井戸もあって水は十分にある、城を築くには良い場所だったことがわかります。
本丸には細川忠興とその妻の玉(のちのガラシャ)の像も。
謀反人明智光秀の娘であり、モラハラ的な細川忠興の妻でもあるガラシャは、関ケ原の戦いで石田三成側の人質になることを拒んで家臣に自分を殺させたという壮絶な人生でしたが、勝竜寺城に入った時はどんなことを思い、暮らしていたのだろうか。
よく物語では、謀反人となった明智光秀の娘ということで城中城外からも迫害されて、さらに嫉妬深い忠興が玉を座敷牢に閉じ込めたと伝わっているが、その座敷牢ってどこ!?。とミーハーなワタシは勘繰りたくなる。本丸ではなく、沼田曲輪とか他の曲輪だったのかな。
北東隅櫓
本丸の北東の隅には櫓が建っていたようです。発掘調査では石垣で補強された高さ4mの土塁が見つかっている。
案内板によると、石垣には七段の階段あり、階段を上がると少し西へ回り込んで土塁の頂上に行けるようになっていたそうです。土塁の頂上は約4m四方の平坦面になっていて、櫓があったと考えられている。
写真の左側に石段があるけれど、復元想像図を見て見ると直線的ではなく、ゆるく左側にまわって土塁の上に上がるようになっていたようだ。
そのすぐそばにも土塁の上に続く石段がありました。
案内板によると、この本丸東辺土塁の中央部では、斜面に石垣が築かれていて、上記の北東隅櫓につながる長屋風の建物の基礎構造だったという可能性があるそうです。
さらにその斜面は一部が張り出していて、その横には井戸が作られていたそうな。
本丸は細かく見ると井戸も複数あるし、居住性にも適した作りだったということがわかります。
北門
再び北門へ。今回は北門から外に出てみることに。
北門の桝形にやってきた。勝竜寺城の石垣は持ってきた石は野面積みだけど、五輪塔や石仏を使って築かれました。
この写真の中に、転用石を使った部分があります。どーこだ?
答えはこちらの案内板の中に!
当時の石垣の上に復元されています。これが2mの高さはあったという。
北門の桝形を出て、堀を渡って本丸の外へ。
本丸を囲む水堀と土塁、立派です!
このあと沼田丸も散策したのですが、その前に。
勝竜寺城が築かれる前の環濠集落の堀跡???
勝竜寺城の南門を出て、突き出ていた土塁の周りにも水堀がめぐらされている。
その水堀と直角にぶつかるように細い水路がありました。勝竜寺城の堀?なんかよくわからない位置に作っているなとぁ。と考えながら歩く。
すると、ブラタモリでもおなじみの京都高低差崖会の梅林さんが長岡京市の説明をしている動画に、上と同じアングルが!
0:45から見てみてください。
どうやら、勝竜寺城が築かれる前にあったと考えられる環濠集落の堀跡なのでは?ということでした。
確かに勝竜寺城の南側に堀で囲まれた卵型のエリアがある。
卵型の堀の部分を紫で塗りつぶしたところ。卵型をした区画の端に後から勝竜寺城の縄張を築いたとも考えられるそうです。
2つの川が交差されるところにある勝竜寺城。より川が交わるところに近い環濠集落をここに作るのは理にかなっているようにも思えます。
勝竜寺城から恵解山古墳に向かう際に通る場所なので、「水堀」に注目して歩いてみてください。
このあとは、山崎の合戦で明智光秀の本陣跡と言われる場所のうちのひとつである恵解山古墳に行ってきました。整備されていて古墳に登れるようになっています。
>>沼田丸、総構えの土塁と空堀、土橋跡編へ続く
・週間日本の城
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