- 2022年9月24日
- 2023年10月18日
勝竜寺城③ 山崎の合戦で明智光秀の本陣だった恵解山古墳に登る
2021年10月に行った勝竜寺城。勝竜寺城の城域ではないのだけど、山崎の合戦で敗戦色が濃くなった明智光秀の本陣があったとされるのが2か所あり、そのうち1つが恵解山古墳(いげのやまこふん)だというので、歩いて行ってみました。古墳に陣をはったのは有名どころでいうと忍城攻めの時の石田三成など事例は多く、平 […]
別名「勝龍寺城」。築城は室町時代中期だと考えられているが、細川藤孝が入城した際に大幅に改修された。
長岡京市の神足神社そばにある『勝龍寺城土塁・空堀跡』にある案内板や「週刊 日本の城」をもとに築城の経緯をまとめると下記のような流れとなる。
勝竜寺城の近くにある神足神社の近くに勝竜寺城の総構えの土塁と空堀跡が残っていて、そこにある案内板がわかりやすい。
図では南北が逆になっていますが「長岡京駅→神足神社にある土塁跡→勝竜寺城の本丸」の順でまわるとこの向きとなる。
現在の勝竜寺城の最もゴージャスな門「南門」はこの縄張図でいうと「本丸」の上部にあるが、そこが正面(大手口側)だったのかはわからない。
西国街道と交わる東西の一本道(家臣の屋敷があったと考えられる)が北側にあること、北側の虎口がしっかり作られていることから、もしかしたら大手口は北側だったのかもしれない。
いずれにせよ、南側は二つの川の合流地点で南からは侵入できず、北側は土塁と堀で囲んで総構え完成。平地に築かれているようでいて、城の選地の仕方としてはセオリー通りといえる。
長岡京市 勝龍寺城土塁・空堀跡にある案内看板より
現在は本丸、沼田丸、沼田屋敷の曲輪が残っていてそれらは土塁と堀で囲まれていた。勝竜寺城本丸から少し離れた神足(こうたり)神社には勝竜寺城の総構えの土塁と土橋、堀跡が残っています。
なお、本丸は下記の3つの点から、織豊系城郭の要素を備えていて、織豊系城郭の初期の先駆的な城だったと考えられています。
小畑川と犬川が合流する地点にあり、勝竜寺城の築城前には堀をめぐらせた環濠集落があったと考えられている。環濠集落内には城名の由来ともなった古刹「勝竜寺」がある。
足利義昭を奉じて上洛した織田信長の命を受け、京都の南部を支配するために細川藤孝により織豊系城郭として改修された。
写真中央にあるのが勝竜寺城。北側(右上)に総構えのあった神足屋敷。
西南側に(左下)あるのが恵解山古墳で、山崎の合戦で明智光秀が本陣を置いたと考えられているうちのひとつ。
豊臣秀吉が陣をはった天王山はさらに南西の方角にある。
勝竜寺の御城印は、長岡京市内の観光案内所(3か所)、神足ふれあい町家、勝竜寺城公園(土日のみ)で手に入れることができます。
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