2021年10月。大阪に舞台を見に行ったついでに駅近物件の勝竜寺城に行ってきました。
細川藤孝が織田信長の命を受けて大規模リニューアルしましたが、藤孝が移封された後は豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦で明智光秀が敗戦時に籠り、近江の坂本城に向けて出立した城です。
勝竜寺城とは
別名「勝龍寺城」。築城は康正3年(1457年)頃だと考えられているが、細川藤孝が入城した際に大幅に改修されたという。
現在は本丸、沼田丸、沼田屋敷の曲輪が残っていてそれらは土塁と堀で囲まれていた。勝竜寺城本丸から少し離れた神足(こうたり)神社には勝竜寺城の総構えの土塁と土橋、堀跡が残っています。
なお、本丸は下記の3つの点から、織豊系城郭の要素を備えていて、織豊系城郭の初期の先駆的な城だったと考えられています。
織豊系城郭の特徴
- 石垣で本丸を囲っている。(昭和の発掘調査では大量の栗石も検出。)
- 建物は瓦葺きであったことが発掘調査で判明
- 天守と思われる建物が築かれた
勝竜寺城の成り立ちについては「勝竜寺城 基本情報」からどうぞ。
勝竜寺城 縄張図
勝竜寺城の近くにある神足神社の近くに勝竜寺城の総構えの土塁と空堀跡が残っていて、そこにある案内板がわかりやすい。
図では南北が逆になっていますが「長岡京駅→神足神社にある土塁跡→勝竜寺城の本丸」の順でまわるとこの向きとなります。
長岡京市 勝龍寺城土塁・空堀跡にある案内看板より
勝竜寺城へ
長岡京駅から歩いて行ける勝竜寺城。
写真は北東の隅にある隅櫓(模擬)。訪れたのは日没寸前だったので、西日がまぶしい。
模擬であったとしても櫓があった雰囲気は伝わる。
水堀をぐるっとまわって南側の南門跡から入ることに。
本丸
東西約120m、南北約80mの長方形の曲輪。高さ4~5mの土塁で囲まれ、外側には堀がめぐっています。
昭和末期から平成初期にかけて発掘調査がありましたが、本丸自体はどのような使われ方をしたのかはわかっていないものの、礎石建物跡と瓦も大量に出土したそうです。
本丸の案内板によると
瓦も大量に出土し、軒丸瓦・軒平瓦の一部は、明智光秀の坂本城(滋賀県大津市)、佐々成政の小丸城(福井県越前市)の瓦と同じ木型で作られた可能性が高いものでした。これは織田家の家臣の城に支配下の瓦造り職人が派遣されたことによるとみられます。
長岡市教育委員会 勝竜寺城案内板より
ということで、信長の上洛とともに城を作る必要性が増し、効率的に城の建物が建造されていったようです。
なお、「週刊 日本の城」の「勝竜寺城」によると、細川藤孝が改修する前は方形の単郭であったものを、藤孝により複数の曲輪を持ち石垣と天守を備えた織豊系城郭へ改築されたようだ。
現在、勝竜寺城で「正面」のような扱いなのは、南側の南門跡で、ここが一番ゴージャスな出入口です。
南門跡
南門跡は整備されていて木橋の雰囲気が良くて、写真映えするのはこの南側ですね。
内桝形の南門跡を抜けると立派な御門の奥に資料館がある。
歴史資料館内では勝竜寺城を紹介する動画を見ることもできました。日が落ちる寸前なのでさっと見て出てしまった。
西辺土塁
南門を出て、本丸の西側の堀にそってしばらく歩く。この沼田丸に隣接する土塁はもっと道路側に張り出していて、この上に「安土城よりも先だった」という天守(殿主)が建っていたと伝わっています。
西南隅の土塁は本丸内で一番高くて、登れるようになっている。
案内板にあるように、本丸西の土塁は南門より道路側に突き出ていて「殿主」(天守)とされる建物があったという。現在はこの突き出た部分が道路となって削られたため、「建物を建てるには狭い」という状況になっている。
見切れているけれど、写真の土塁の左側を進むと天守があったという西南隅にあたる。
本丸西側の土塁への登り口。土塁がこの奥だけ少し窪んでいて、それは沼田丸へ続く帯曲輪への橋がかけられていて抜けるための導線だったからと考えられている。
土塁に登ってみると意外と広く、西南の隅で天守があったとされる左側に進むと「光秀出陣のテラス」と名付けられている。ちなみに右側に進むと土塁の北西側で北門の真上に出る。
現在の西辺土塁の南西隅。この奥にさらに広がっていて天守が置かれていた。
案内板の先に見える山が、山崎の合戦で豊臣秀吉が陣取った天王山。
本来の土塁はもっと道路側にせり出していて、そこに天守が築かれていた。縄張図を見ても土塁が出っ張っている。
この天守と思われる建物ではいろいろと行事が開催されていたそうで、南門の案内板によると
- 天正2年(1574年)に細川藤孝はこの建物内で三条西実澄から古今伝授を受けた。
- 藤孝の息子の忠興と明智光秀の娘の玉(のちの細川ガラシャ)の婚礼が行われた。
ということで、江戸時代後期の倉庫代わりのように使われたのではなく、室町期の銀閣寺のように「複数の階層があった書院造りの建物」で文化サロンの場として使われていたのかもしれない。
連歌や囲碁などの催し物も勝竜寺城で開催されていたというし。
案内板によると、一部の軍記物語には明智光秀は「おんぼう(御坊)塚」に本陣を置いたという記述があり、場所については2つの古墳が候補になっている。
明智光秀 山崎の合戦での本陣 2つの説
- 恵解山古墳(いげのやまこふん)付近 光秀本陣
- 境野(さかいの)1号墳付近 津田信治の陣
現在は恵解山古墳説がとられていて、案内板の解説図は恵解山古墳説をもとに描かれています。
現在は冠木門が模擬で建てられているけれど、土塁がもっと突き出ていたのでここは入口ではなかったはず。
西辺の土塁を歩いて反対側の北西側へ向かうと、北門の上に出ます。
北門
土塁の上から北門を上から眺める。発掘調査では石垣や門の礎石が残っていました。石垣の高さは2m以上あったそうな。写真にある石仏がたくさん置いてある小屋の前には門の礎石が残っています。
北門は桝形虎口。堀を渡って門に入ると東に直角に折れ曲がってから次の門をくぐることになる。
北門のそばにはたくさんの石仏や石塔が。
勝竜寺城の石垣に使われていた石仏や石塔。
「罰当たりな!」と言うことなかれ。あの織田信長に命令されて相当なプレッシャーの中で城をリニューアルしなければならないわけで。最短納期で城を築きなおすには、すでに整形された石仏や石塔を使うのは当時としては必然であったといえる。
山崎の合戦で敗戦した明智光秀はいったん勝竜寺城に籠ったのちにこの北門から近江に向かって逃げ出したと言われています。
>>本丸探索はまだまだ続く 桝形虎口の北門へ
- 1
- 2