2021年10月に行った勝竜寺城。水堀で囲まれた本丸のみが「勝竜寺城」と思われがちですが、隣接する公園も「沼田丸」という曲輪で、さらにその奥には現在は宅地になっていますが「沼田屋敷」という屋敷群がありました。今回は沼田丸と、南にある勝竜寺城の総構えの跡の土塁と空堀、土橋を紹介します。
勝竜寺城の成り立ちについては「勝竜寺城 基本情報」からどうぞ。
勝竜寺城 沼田丸
勝竜寺城の本丸の西辺土塁から帯曲輪を挟んで反対側にあった沼田丸。本丸の南西側に帯曲輪を挟んであった曲輪です。
東西約40m、南北約65mの曲輪は周囲を土塁で囲み、外側には堀をめぐらせていました。
案内板を見ると帯曲輪の発掘時の写真があり、復元図と同様に細長い曲輪だったことがわかる。
そして案内板にある「永青文庫」に所蔵されている勝竜寺城の図を見ると、勝竜寺のまわりが環濠集落の名残の堀で囲まれていたというのがわかる!
勝竜寺城の築城前の環濠集落についてはこちらをチェック!
2021年10月。大阪に舞台を見に行ったついでに駅近物件の勝竜寺城に行ってきました。 細川藤孝が織田信長の命を受けて大規模リニューアルしましたが、藤孝が移封された後は豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の合戦で明智光秀が敗戦時に籠り、近江の坂本[…]
勝竜寺城の南門から歩いてくると手前側は駐車場になっている。奥(北側)は広場のようになっていて、一見すると曲輪の跡なのかよくわからないので、よーく観察する必要があります。
本丸の西辺土塁と堀の名残だと思われる。案内板やその他の復元図を見ても沼田丸の東側には土塁はなかったようで、写真で今、立っている舗装された道路の部分がおそらく帯曲輪の跡なんじゃないかと。
写真は本丸の西側の土塁と帯曲輪の間の水堀の名残と思われる。
沼田丸はこんなに広い。うん。建物はいくつか建てられそうだ。
こちらは沼田丸の北側。
うっすらとカーブを描いている窪みは1990年代の発掘調査でできた水堀の跡を表しているそうです。
「土塁は!?」と突っ込みたくなる。土塁もくれ・・・。
西側はけっこう大きな土塁があり、そのまわりは広い水堀があったはず。
現在は土塁は無いのだけど、
急にガクンと落ちて、いかにも水堀があったような高低差。
そしてさらに西側のヘリに沿って進むと・・・
水堀跡が公園になっていた!
広いぞ。深いぞ!
この公園の先もゆるくカーブを描いていて沼田丸の堀だったと思われる。そのカーブは柵で打ち止めになっていて民家になっているので入れないのだけど、そのカーブが続くであろう先にまわって見るとこの高低差は続いていた。
右が沼田丸の西のヘリ。ガクンと落ちている。水堀が続いていたんだろうな。
この延長線上は城の敷地だったことがわからないくらいの住宅地になっているんだけど、畠中診療所の前のゆるいカーブを描いた道路も水堀の名残だったのでしょう。
井戸跡
沼田丸の南東の隅っこのほうに井戸がありました。
案内板によると、この井戸跡は本丸の細川藤孝が改修した際に作られていて、四角形に組んだ角材の上に円形に石を積み上げて作られているそうです。そしてこれも同じなのは、主に自然石を利用しているけれど、石仏や五輪塔も含まれているとのこと。
ひぃ~っ!!! 飲み水をキープしておく井戸に石仏を使う!?
かなりの短縮工法でつくられた井戸。深さは2mもあるそうだけど、16世紀末までには埋め戻されたそうです。
沼田屋敷跡は住宅地に
沼田丸の北側には沼田屋敷という一画がありました。現在は宅地化されていてその名残は無く、でもなんとなく道路はその曲輪跡をなぞっている気はする。
そして本丸の北には松井屋敷、米田屋敷、中村屋敷という一画があったそうです。
その後の勝竜寺城はというと、山崎の合戦で明智光秀が敗れた後は廃城になり、豊臣秀吉の弟の秀長によって淀古城を改修した際に勝竜寺城の石材が転用されたということです。
まだまだ続くよ。
>>勝竜寺城の総構えの跡 神足神社に土塁と空堀を見に行く
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