織田信長陣跡 南側の壮大な切岸
これまで見てきた蜂谷頼隆陣、滝川一益陣、堀秀政陣のどれとも全く異なる作り!
例えば堀秀政陣を挙げると、手を加えずにできあいの古墳を櫓台として利用し、その前後に堀を作っていかにも「臨時に作った戦いの場」だったのに対し、織田信長陣地跡は「時間と人員をふんだんに使ってゆったり居住もできるエリアを作っちゃいました」的な余裕を感じる。
さすが「上様」の陣。
織田信長の側近だった戦国メモ魔・太田牛一の『信長公記』の記述からも虎御前山城のその美しさがわかります。
虎御前山の城普請はまもなく竣工した。見事な設計で、この山の景観を生かした仕上がりには、だれもが「多くの城を見聞したが、これほどのものは見たことがない」と言い、目を見張って驚いた。
『現代語訳 信長公記』 P.193より
ここから眺めていると、太田牛一がそう書き残したのも理解できます。
この切岸を眺めながら一杯飲めるな。
この上に登ったら小谷城がすぐ目の前なんだろうな。写真では見切れているのだけれど、遠くに見える山々は小谷城の山裾です。
信長はきっとこの陣から小谷城を眺めるとともにプレッシャーを与えたのだろうな。
織田信長陣地跡を歩み進めていく。
東側からまわりこんで曲輪に入るのだけど、
そのまま東側の虎口から入らず、西側にまわってみると、曲輪に沿って犬走りがあり、その奥には「小曲輪」と名付けられた区画がありました。
整備状況が非常に良いのでそのまま西側を進むと抜けられそうだけど、東側の虎口から曲輪に入りたかったので東側に戻ることに。
織田信長陣跡 長枡形虎口と最上段の曲輪へ
いよいよ織田信長陣地 最上段の郭へ入っていく。
入るとそこは細長い四角形のような一角で、「長枡形虎口」という案内版がありました。
虎口へはたいして登ったつもりはなかったけど、振り返るとやはり高かった。
長枡形の奥もやや高くなっている。おぉ。ここが最高所か!
長枡形虎口の案内板のそばに推定復元図がありました。これがとてもわかりやすい。
織田信長陣地跡だけではないのだけど、段々と作られている曲輪の使われ方がわかりやすい。長枡形の見事なことよ!
外枡形になっている長枡形とその奥の曲輪、さらに下には3段の曲輪が築かれていたようです。
そしてここが長枡形の奥。
長枡形からは少し高くなっていて、見渡す限りフラットに成型されている。
この前と後ろ堀秀政陣、秀吉陣で守りは固められているし、ここまでくると、曲輪を塀で囲ったとしても形式的なものであって、ガチガチに防備を固める必要性は無いのだろうな。小谷城から見えるこの位置ならプレッシャーを与えるのに十分。曲輪も小さいものを細かく作るよりも、大きめに作って遠くから見ても判別しやすいように作る。「相手への威嚇曲輪」というか、見せつけることを意識して造っているように感じる。もとから負け戦は想定していないだろうし、「高さ×切岸」で十分だわ。
フラットな信長陣所を出て先に進みます。
降りやすいように階段は作られているけれど、虎口ではなかったであろうところを無理やり降りる。
織田信長陣跡 信長馬場
信長陣地跡の北側はさらに細長い曲輪が連なっていて、一部は「信長馬場」と名付けられていました。
信長馬場の奥は、尾根上を進む道がまだまだ先に続いている。思った以上に次の曲輪までは距離があるぞ。
この先には不思議な形に造られた木下秀吉陣地跡が続きます。
・この先の陣地跡は木下秀吉陣地跡とも柴田勝家陣地跡とも伝えられていますが、現地の案内にもある「秀吉陣地跡」とします。
>>織田信長陣地跡編 終わり 木下秀吉陣地跡編に続く
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