虎御前山城④ 三角の曲輪に技巧を施す! 木下秀吉陣地跡

虎御前山城編の続きです。
ふもとから登り初めて1時間10分。昼休憩の15分を除くとここまで歩いたのは実質1時間弱。快適な山城散歩で目指すのは伝木下秀吉陣地跡です。

木下秀吉陣地跡

陣地跡が連なる虎御前山城のなかでも逆三角形の特異な形状をした曲輪。木下秀吉陣地跡とも柴田勝家陣地跡とも推定されています。
この陣跡は小谷城に面していて、小谷城から目と鼻の先にある前線基地なのです。

・資料によって秀吉の当時の名前の表記は違っているのですが、現地を訪れた人にわかりやすいように、虎御前山城の南側の登り口にある案内板に合わせて「木下秀吉」の表現とします。
木下秀吉陣地跡とも柴田勝家陣地跡とも伝えられていますが、現地の案内にもある「秀吉陣地跡」とします。

 

木下秀吉陣地跡 縄張図

中心部の高いところは古墳で、それを櫓台として使ったと推定されている。その下の曲輪は「三角 ▽」の形で、周りを土塁で囲んでいる。三角をさらに囲むように帯状の曲輪を配置している。地形をそのまま活かして陣が築かれているが、まさかの三角とは!
この三角形の曲輪には土塁のほかに虎口もあり、東側の虎口にいたっては降りていくと70mもの曲輪が伸びている。その先にある北国道と小谷城を見据えて作られているのだろう。
それほど広い区画でなくても技巧的に造られているのは 「produced by 秀吉 だから」と言われたら納得かも。

虎御前山城 羽柴秀吉陣地跡 縄張図
羽柴秀吉陣地跡 縄張図を加筆

なお、秀吉陣の北には現在は登山道が突っ切っているものの、“薄め”の堀切がある。上記の縄張図に赤い矢印で加筆しています。

『近江の山城 ベスト50を歩く』によると、

堀切は土塁状となるが、堀底と土塁外側の比差は小さく、遮断性はあまり強くない。おそらくこれは堀切ではなく、塹壕であろう。堀底部分に兵を置き、土塁状部分を銃座として、北側尾根筋から侵入する敵に備えた施設と考えられる。

『近江の山城 ベスト50を歩く』 P.42 虎御前山城 より

ということで、小谷城からやってくると通るであろう「尾根伝いの北側からの侵入対策」もばっちりなわけです。
実際に歩いてみると、さほど広くない曲輪にこれだけのテクニックが詰め込まれてるのか!?と驚かされるのです。

 

木下秀吉陣地跡を歩く

信長馬場を突っ切って歩くと小高い一角が見えてくる。

階段を数段登ると・・・

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
虎御前山城 木下秀吉陣地跡

木下秀吉陣地跡の最も高いところに到着。

「木下秀吉陣地跡」の石碑のそばの木に「虎御前山 220m」と書かれているのだけど、それが訂正されて「224m」となっている。
虎御前山城は「織田信長陣地跡が最高所」とされているけれど、実は地図サイトを見ても山登りアプリで測ってみてもこの木下秀吉陣地跡のほうが高度としては高い。
ただし、高いからといってこの場所が織田信長陣地だというには無理があると考えていて。伝織田信長陣地のほうが造りが堂々としていることや、小谷城の前線となるこの曲輪の位置から考えると、こんな危険な場所に信長が陣取っていたとは思えず、やはり当時の家臣ラインナップからしても木下秀吉か柴田勝家の陣地跡だったと考えるのが妥当でしょうね。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡の案内板
木下秀吉陣地跡 「大曲輪」と名付けられている

この案内板は円墳から一段下がった三角の曲輪にあったと記憶しているけど、この図解がわかりやすい。
木下秀吉陣跡の石碑がある最も高い場所が中央の丸い円墳のエリア。円墳から下をのぞき込んでいると、ぐるりと帯曲輪が囲んでいることがわかる。

円墳の北側にある階段から三角の曲輪に降りてみます。さらにその奥には三角の曲輪から降りる階段が続いている。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
木下秀吉陣地跡 円墳から降りてみる

>> 木下秀吉陣地跡 三角の曲輪を囲む土塁を見に行く!

虎御前山城 豊臣秀吉陣地跡
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