勝竜寺城の北側にある神足(こうたり)神社。案内図的では「神足屋敷」となっていますがかつては「神足城」があったそうな。
細川藤孝が勝竜寺城をリフォームした際に神足城を取り込み、北側の防御壁となる総構えの土塁と空堀を築きました。
総構えの土塁と空堀、土橋跡がある神足神社へ
勝竜寺城の総構えの土塁と空堀の跡は神足神社にあります。下記の図では「神足屋敷▲」とあるところです。
近くまでくると案内があるけれど、案内より先に土塁が目に入るのですぐわかります。
土塁が断ち切られているのだけど、その断面には土塁の断面図!
現地の案内板の縄張図を見ると、この土塁の高まりはさらにもう少し続いていたようでスパっと切られているらしい。そこに断面図を掲載しているのが良い!
案内板によると、発掘調査では土塁の頂部は幅約3.4m、裾部の幅は約7.5m、高さは約6mあったことがわかっているそうです。土塁の断面を観察すると黒い土と黄色い土が交互に積み上げられていた下層と、黄色い礫層を積み上げた上層に分けられるそうです。それを土塁の断面図で表してくれている。
丁寧な解説案内板があり、このサイトでの勝竜寺城の縄張図はここから拝借しました。
この案内図にある「神足屋敷▲」が現在いるところ。土塁と堀が途中で切れているところに土橋があります。
写真は西側から眺めたところ。写真の奥が南側にあたります。土塁が高い!
中央の堀にかかったような橋になっているのが土橋です。
土塁と空堀は残っているのはごく一部なのだけど、それでもじゅうぶんに長くて深い!
土橋に近づいてみる。見下ろして横に柵が走っているところが土橋。
城内に入るためには、この土橋を渡ることになるわけで、両サイドの土塁や奥の高まりから狙われ放題。横矢がちゃんと掛かっている。
この図でいう手前は空堀の東側(土塁の高いほう)から土橋を眺めた時の図。
左(北側)が城外で、右(南側)が城内。
左から城内に敵兵が入ろうとするために土橋を通らざるを得ない。そこを横から攻撃するわけです。
土橋から西側の堀を眺めるとこんな感じ。案内板によると、発掘調査によって堀は土の堆積状況から空堀であることがわかっていて、幅約7m、深さ約3mだったことがわかっています。
それに対して土橋は約1m。幅が狭いため崩れやすく、堀底から掘った土を層を重ねて強固に作られていました。
埋められて底が浅くなっているので実際はもっと深い。ここから横の攻撃にさらされて堀にでも落ちてしまったら戦闘の最中に土橋によじ登って逃げることはできないことを考えると怖ろしい。
土橋から反対側である東側を眺めると、これまた長いね~。
そして西側の高く残る土塁を見に行く。
案内板によると、発掘調査でこの高い土塁の中に埋まった状態で堀が見つかったそうです。
この埋められた堀は、現在の空堀と位置と広がっている方向が同じとのこと。神足氏の居館(神足城)の関連施設だと考えられているそうで、堀が続いていた場所に細川藤孝が勝竜寺城をリニューアルした際に一部を埋めて土塁を築かいて守備を強化したことの表れなのかもしれません。
西側の土塁から眺める空堀、土塁、土橋が絶景。
空堀、土塁が長いこと。その中央を区切るようにある土橋。山崎の戦いで豊臣秀吉に負けた明智光秀が近江の坂本城に向けて逃げた際、勝竜寺城にいったん籠ったあと、勝竜寺城の北門から抜けてこの土橋を通って山科に向かったと伝わっています。
勝竜寺城を出た光秀は、結局は近江に逃れることはできず、京都市伏見区の小栗栖(おぐるす)で落ち武者狩りに合い最期の時を迎えたという。その山崎の合戦での舞台になった勝竜寺城からの逃走ルートの距離感をほんの少しだけですが体感できる貴重なスポットである勝竜寺城総構えの土塁・空堀跡。長岡京駅から勝竜寺城に向かうならその途中にあるのでぜひ立ち寄ってみてはいかが?
周辺の歴史スポットも紹介してくれています。
所在地:京都府長岡京市東神足2-5
アクセス:JR長岡京駅から徒歩約15分
駐車場:あり 2台分のみなので勝竜寺城の駐車場に停めたほうがよい。
最後にもう1か所。城ではないのですが、山崎の合戦で明智光秀の本陣を置いた恵解山古墳にも行ってきたので次の更新で紹介します。
>>山崎の合戦で明智光秀の本陣を置いた恵解山古墳編 に続く
・週間日本の城
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