『どうする家康』聖地巡礼⑫ 一向一揆の拠点 野寺本證寺と謎の三角池

今回、本證寺には裏側(南西部の駐車場)から入ったので、改めて表門である「大門」へ出て、土塁を探しに行きます。

大門

本證寺の「表」を飾る大門。立派な門だけど、案内版に注釈は無かったので歴史は浅く、建てられたのは明治時代以降だと思われる。

本證寺 大門
本證寺 大門

大門前のこの角度からだと「本證寺」の石碑と鼓楼、水堀がフレーム内に収まるのでおすすめ。

本證寺碑
本證寺碑と鼓楼と水堀

大門に向かって左側の堀は工事で水を抜いている途中なのか?

本證寺 内堀
内堀と鐘楼と経蔵

左側に鐘楼、白壁と腰壁がなまこ壁になっている経蔵が見える。案内版によると、鐘楼は元禄16年(1703年)、経蔵は文政6年(1823年)に建立されたそうで、どちらも建てられたのは200年前!三河一向一揆時代のものではないけれど、この「堀」だけでも雰囲気は伝わってくる。

大門を出て内堀のまわりをぐるりと歩く。やっぱりこの鼓楼、いいなぁ

夕暮れ時は逆光になるけれど、これはこれで良いものです。

 

土塁の名残を探しに

本證寺といえば、城好きにとっては憧れなのが「土塁」松平家康からの攻撃に対して築かれたと伝わっています。
本證寺の北西にある「野寺ちびっこ広場」の周辺から覗けないかを探ってみることに。

本證寺と野寺ちびっこ広場
本證寺と野寺ちびっこ広場

本證寺の敷地とは一段低いところにある「野寺ちびっこ広場」。この高低差が意味深よね

そして柵の外側から覗きこんでみる。

うっすら土塁らしきものが見えるかな?右の写真はズームしたものです。

 

こちらの写真はよく見ると土塁が食い違っているように見えるけど、歴史番組によると、かつてはつながっていて、後世に間を抜かれたと考えられているようです。発掘調査結果で堀の深さは約4m。きれいなV字型だったそうです。いつかぜひ近くで見てみたいものです。

 

北東に少しだけ残る堀跡 外堀橋へ

そして最後にもう1ヶ所。なかなか気づきにくいところにちょこっとだけ外堀の後が残っています。
本證寺の境内にある案内図の北側に少しだけ残る現存する堀跡。赤丸で囲んでいる部分です。

本證寺 案内図
本證寺 案内図

それが現在は「外堀橋」とともに残っている。

本證寺 外堀橋と堀
本證寺 外堀橋と堀

写真の中で横断している道路の手前側&見切れている右のほうに本證寺の鼓楼があるイメージ。
ちょうど立っているところから奥に向かって堀が伸びていました。外堀の北側を東西にわたって320mあった堀の一部です。
橋の欄干が見えるかな?

本證寺 外堀の跡
本證寺 外堀の跡

見えにくいけれど、枯れた草の奥にあるのが堀。本證寺の境内からすぐのところにある外堀跡はチェックすべし!

最後は東側に残るもうひとつの外堀跡です。

 

謎の三角池・・・本證寺の外堀!?

外堀の復元図を見ていて気になったのが東側にある不思議な直角三角形。Googleマップで現在の姿を見ても存在している。

本證寺の境内にある堀の復元図では、よく見ると三角形の上の部分が少し切ている。外堀が切れている=出入口だったようです。
が、それだけではないことが発掘調査でわかりました!安城市の「文化財ジャーナル Vol.64 生涯学習情報誌『あんてな』2022冬号」によると、この三角池は「いままで戦国時代の堀を堀りなおしていると思っていたけど、そうじゃなかった」とのこと!
詳細は報告書を見てもらいたいのだけど、現在の池を覆うようにかつては外堀が築かれていて、それは戦国時代に掘られたものであり、短期間で埋められたことがわかったそうです。本證寺の堀の大部分は三河一向一揆の後に埋められ、それを江戸時代に堀り直していることがわかっていたのだけど、この直角三角形部分は元の堀を掘り起こしたのではなく、位置をずらして掘られたそうな。

文化財ジャーナル Vol.64によると

なぜ、ここだけ戦国時代と違う場所に堀を掘ったのかは、明らかではありません。

文化財ジャーナル Vol.64 生涯学習情報誌『あんてな』2022冬号

おぉ!ミステリー!
なぜこの場所だけあえて位置をずらして掘られたのであろうか。当時の町割りなどが影響したのかな?など、想像が膨らみます。さらなる調査をぜひ!

今回はこの三角池まではいきませんでしたが、次はぜひ、この三角池も見に行きたいです。
このままぜひ、残してくれぇぇぇ!

 

その後の本證寺

永禄6年(1563年)の三河一向一揆で本證寺はほかの三河の寺とともに領主の松平家康と戦いましたが和議が結ばれることに。が、そのときの条件である改宗命令を拒否したため僧侶達は三河から追放となり、建物も破却されたと考えられています。
『どうする家康』でも出てきた本證寺10代目のカリスマ空誓(くうせい)も逃れることに。
案内版によると、江戸時代に三河三ヶ寺は「本末制度(ほんまつせいど)」の「本山-中本山-末寺」という本末制度のなかでは「中本山」の地位を与えられ、末寺のとりまとめ役を担ったそうです。
なお、堀に関しては三角池の件で先に記載していますが、江戸時代後期に外堀が掘削され、再整備が行われたそうです。
本證寺は江戸時代にはしっかり復権し、これからもかつての場所に存在し続けることでしょう。

 

本證寺 基本情報

  • 築年:寺としての創建は鎌倉時代後期(12世紀末頃)。慶円(きょうえん)によって築かれた。16世紀前半に二重の堀と土塁が築かれた。
  • 種類:城郭伽藍
  • 天守:なし
  • 主なタイトル:-
  • 主な遺構:内堀、外堀跡が残る
  • 文化財指定:国指定史跡
  • 所在地:愛知県安城市野寺町野寺26
  • アクセス:名鉄西尾線「南桜井」駅から徒歩約15分/JR東海道線「安城」駅からタクシー約20分/三河安城駅からタクシーで25分
  • 駐車場:あり
  • トイレ:
  • 売店・食事処など:なし
  • 女子城メグラー 難易度:★★★☆☆
    南桜井駅から歩いて15分ほど。お寺の境内なので起伏も無く、内堀跡、外堀跡の散策には問題無し。歴史番組や城番組で放送される土塁は自由に通り抜けて散策はできないようになっています。シンボルとなっている太鼓楼水堀の周囲を散策するだけでも当時の雰囲気を味わうことができます。

 

本證寺 散策ログ

本證寺の散策ログはありません。




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本證寺 太鼓楼
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