『どうする家康』聖地巡礼⑫ 一向一揆の拠点 野寺本證寺と謎の三角池

2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
『どうする家康』の聖地“潤”の旅。「三河一向一揆編」スタート!
三河一向一揆の重要拠点となった野寺本證寺。一向宗の拠点となった寺ですが、これはもう館城(やかたじろ)だわ。見るからに「城」でした。

本證寺とは

桶狭間の戦い以降、織田信長に付いて今川家の支配下から独立した22歳の松平元康は、名を「家康」と改めて三河平定をすすめる。そんな家康に立ちはだかったのが三河一向宗。その教団である本願寺は三河に一大勢力を築いていました。特に巨大な勢力を誇ったのが佐々木上宮寺針崎勝鬘寺(しようまんじ)野寺本証寺で、まとめて「三河三カ寺」と呼ばれています。これに土呂本宗寺を加えて「四カ寺」と称されることも。この4つの寺の配下には合計数百の末寺があり、これらの門徒が一斉に家康に蜂起したことからさぁ大変。『どうする家康』でも大きな見せ場となるに違いない!

この四カ寺は川幅のある矢作川周辺にあり、街道&水路を押さえる交通の要所にあり、家康の父である松平宏忠に「守護使不入」の特権を与えられていました。家康は今川の勢力と対峙するために上宮寺付近に砦を築かせたところ、家臣である※菅沼定顕(すがぬまさだあき)が上宮寺から兵糧とする穀物を奪ったことにより、「不入特権の侵害」と門徒達が蜂起。三河家臣団をも巻き込んだ戦いとなっていきます。

本證寺は寺院ではあるものの「これ、館じゃん!」と思うくらい城に近い作りをしています。何重もの堀に囲まれ、太鼓楼戦国時代の櫓のよう。修行をする聖なる場所や寺院「伽藍」と言いますが、あまりに独特で「城郭伽藍」と呼ばれています。

※菅沼定顕は実在しない説もある。

本證寺 立地について

本證寺は平地にあるが、その弱点をカバーするかのように北から流れてきた矢作川が緩くカーブを描いて西に抜け、まるで寺の東と西を大きな水堀で囲んでいるかのよう。さらに周囲を土塁と水堀で囲んでいるわけで、平地とはいえ、この守りは強い!

本證寺 縄張図

二重の堀に囲まれているだけでなく、土塁にも囲まれていて・・・強い
外堀の規模は東西320m、南北310m!・・・強い
現在の本證寺は江戸時代後期の再整備されたものが残っている。再整備の債に外堀の一部を掘削されています。
なお、城番組でよく登場する「本證寺の現存している土塁」は散策者は立ち入れない場所にあるため見ることはできません。

本證寺 境内の案内看板
本證寺境内堀復元図

この絵図は寛政年間の「本證寺伽藍絵図」をもとに書き起こしているんじゃないかな。「『本證寺伽藍絵図』の寛政年間(1789~1801年)」の絵図(「城郭伽藍の所以 本證寺伽藍絵図1」 生涯学習情報誌『あんてな』2022夏号)によると、

安城市教育委員会では平成21年(2009年)以降発掘調査を計画的にしています。これにより絵図に描かれたとおりの外堀がほとんど壊されることなく、現在も地中に埋まっていることがわかってきました。

「城郭伽藍の所以 本證寺伽藍絵図1」より

そしてさらに、

それと同時に、三河一向一揆が起こった戦国期の堀の様子は、絵図と異なっていたこともわかってきました。

ということで、江戸時代に復元された堀とは配置が異なっていたらしい。

市教育委員会は、この絵図をもとに現在の地形や明治~昭和期の地籍図、地元住民への聞き取り成果を照らし合わせて、現在地中に埋もれてしまっている外堀・内堀がどこにあったのか、位置の推定復元を試みました。そして、史跡整備を目指した情報収集のため、発掘調査で私たちの推定が正しかったのかどうか確認しています。

発掘調査でここまで把握してくれたということで、現在も城郭伽藍の雰囲気はじゅうぶん伝わるのだけど、調べれば調べるほど謎が深まるばかりです。このちょっとした堀の違いは、『謎の三角池』の話につながります。

 

本證寺 見どころ

  • 太鼓楼と水堀の姿はフォトジェニック!
  • 内堀と外堀が近づいている南西側は整備されて、埋められた外堀跡がよくわかる!
  • 現存の土塁は道路からちらっと覗けます。

 

本證寺へ

大河ドラマ『どうする家康』効果か本證寺の南西側が整地されていて、外堀跡がよくわかるようになっている!
本證寺境内を囲む堀は二重になっていて、南西の駐車場付近は水堀の内堀、埋められた外堀が近づいていて両方が見られる貴重な場所です。

本證寺
本證寺 外堀跡
本證寺 外堀跡
本證寺 外堀跡

 

外堀跡と内堀を越えて境内へ入るとすぐ目に入るのが本堂の建物。その両サイドに内堀跡がある。

本證寺 内堀と本堂
本證寺 内堀と本堂

本堂のそばにある案内版に掲載されている「本證寺境内堀復元図」によると本堂の手前にちょこっと飛び出して堀があるようで、それが写真の左側の堀。右側にも内堀が迫っていて道を狭めているようにも見える。この左右の堀跡はつながっていたのか?と思ったらそうではないらしい。
安城市のホームページにある「『本證寺伽藍絵図』の寛政年間(1789~1801年)」の絵図(「城郭伽藍の所以 本證寺伽藍絵図1」 生涯学習情報誌『あんてな』2022夏号)によると、寛政年間にはこの左端の堀は無かったようですね。

本證寺 内堀
本證寺 内堀

 

本證寺 内堀
謎の鳥の置物がある内堀

内堀の東側は水が張られていました。そして謎の鳥の置物が。これ、なんだろう?

 

本堂

本證寺の本堂は案内版によると三河一向一揆から100年後の寛文3年(1663年)に再建されたもの。立派な建物ですがそれもそのはず。地方にある浄土真宗の寺院本堂としては大きいものだそうです。

本證寺 本堂
本證寺 本堂

そして境内の案内版には現存の堀と埋没した堀の説明がある。これがけっこう詳しいので要チェックです。

本證寺
本證寺の石碑と案内版

ワタシが行ったのは2023年1月末でしたが、2月には外堀と内堀の発掘状況を踏まえて、城好き寄りの案内に変わったようです。

 


 

本證寺 境内
本證寺 境内

境内は自由に散策できる場所だけでもじゅうぶん広い。
写真の正面の門が「大門」、左にあるのが「鼓楼。そうそう、これが見たかった!

 

本證寺のシンボル『鼓楼』

そして本證寺のシンボルとなっている鼓楼
石積みの上に立ち、屋根には鯱瓦まで乗っている。一見すると城郭建築でいうのようではないか!

本證寺 鼓楼
本證寺 鼓楼
本證寺 鼓楼
鼓楼の上には鯱瓦!

鼓楼は櫓のようですが、現地の案内版によると特に「城」を意識したものではないそうです。

宝暦10年(1760年)の建立です。真宗寺院特有の建築で、上層にある太鼓で時を知らせていました。

現地案内版より

 

そして自由に歩ける境内の奥には、白漆喰の壁で囲まれたエリアがある。

本證寺 裏門
裏門と「奥」の建物たち

写真の右側には18世紀前半に建てられた薬医門形式の「裏門」、そして白い壁の奥には文政13年(1830年)に一部を移築して再建された「庫裏(くり)」がある。庫裏とは僧侶が居住するところで台所を兼ねた場合もあります。

城好き垂涎の土塁はこの壁の向こうにあるんですよね
本證寺の敷地の裏手にまわって土塁を探しに行きます。

>> 本證寺編 続く

本證寺 太鼓楼
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