虎御前山城④ 三角の曲輪に技巧を施す! 木下秀吉陣地跡

木下秀吉陣地跡 三角の曲輪

古墳だった中央の円形の曲輪の下を「三角の曲輪」と勝手に名付けていますが、これがなかなか面白い造りなのです。

三角の曲輪を囲む土塁

三角の曲輪に降りてみる。
曲輪自体は「三角 ▽」の形状かどうかは現地では判別がつきにくかったのだけど、縄張図や現地の案内図にあるように土塁がまわっていることはわかりました!

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
木下秀吉陣地跡 三角の曲輪の土塁
虎御前山城 木下秀吉陣地跡
左の高まりは最も高い円墳
虎御前山城 木下秀吉陣地跡
木下秀吉陣地跡 三角の曲輪の土塁と虎口

曲輪形の西側の土塁の切れ目に虎口を発見!

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
木下秀吉陣地跡 三角の曲輪の虎口

虎口に立って下をのぞき込むと帯曲輪が連なっている。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
三角の曲輪の虎口から眺める

三角の曲輪はぐるっと一周したいところだったけど、風が強くて雨も降りだしそうだったので先を急ぐ。北側の階段を下りていく。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
三角の曲輪の北側から降りる

この降り口が当時の正規ルートかは縄張図では判断つかなかったのだけど、現地の案内板を見ると北側に虎口らしき表記があり、ややクランクしながら西側に降りて抜けるようになっているようだ。
写真の階段の下、右側にあるのは・・・堀?

近づいてみると見慣れぬ表記がありました。

正体不明!? ” かざし堀 “

かざし堀 とはなんぞや!?

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
木下秀吉陣地跡 かざし堀???

調べても名前のルーツはよくわからず。

埋まっているとはいえ、なかなかの堀幅で、降りてくる途中に「これ、堀じゃない?」とわかるくらいの規模感。

三角の曲輪から降りてきた場所が虎口だとして、

  • 北から攻めてきた敵兵が一気に取りつかないように、分散というか敵兵の密度を減らすために造られたものか?
  • あるいはもともと堀をめぐらすつもりが仕上げることができなかった「捨て堀」!?
    虎口がある場所はよじ登りやすそうな高さだし、「登ってきたときに上から仕留めやすいように横堀を築こうとしていた」?

虎御前山城が築かれて以降、使われたのは一年程度で、工期も短く突貫だっただろうから後者の説もさもありなん。と仮説を立てながら歩きました。誰か詳しい方、教えて!!!


秀吉陣地跡の散策はこのくらいにして、先を急ぎます。
南から虎御前山を登り始めるとこの秀吉陣地跡がクライマックス。あとはひたすら北に抜けるのみ。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
虎御前山城 木下秀吉陣地跡

堀秀政陣地跡までは散歩している人や城めぐりと思われる人がいたのだけど、ここから先はさらに人の気配がまったく無くなる。
それでも「虎御前山ハイキングコース」として整備されていて、看板やロープでの通路がわかりやすくなっているので、女性ひとりでも安心して散策できる! 基本、まっすぐ歩くだけなので迷うこともないしね。

木下秀吉陣地跡 北側の堀切

ハイキングコースの案内板を越えると、このページの冒頭で紹介した「木下秀吉陣地跡 北側の “薄い” 堀切が見えてきた!
下った中間くらいに堀切、その奥に土塁がある。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡
木下秀吉陣地跡 北側の堀切

近づくとわかりづらくなってしまったので写真に加筆。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡 北側の堀切と土塁
木下秀吉陣地跡 北側の堀切と土塁

その奥はストーンと落ちている。

虎御前山城 木下秀吉陣地跡 北側の堀切の先
木下秀吉陣地跡 北側の堀切の先

冒頭の「木下秀吉陣地跡 縄張図」で触れていますが、堀切というには浅く、塹壕として使われたのではないか?と考えられているようです。


さほど広くない三角の形状の地を、古墳を生かしつつ周りを土塁で囲み、北の尾根伝いの道を堀切と土塁で切る。
なかなか見どころのある木下秀吉陣地跡でした。
次は最後。「伝柴田勝家陣地跡」です。

 

>>木下秀吉陣地跡編 終わり  柴田勝家陣地跡編に続く

参考資料:
・滋賀県教育委員会 小谷城跡をめぐる城々
・長浜・米原観光情報サイト 虎御前山ハイキングマップ
『近江の山城 ベスト50を歩く』 中井均(著)

元亀元年(1570年)から元亀3年(1572年)の3年にわたって織田信長が近江の諸勢力と戦った騒乱のこと。浅井長政の居城であった小谷城の攻防戦が有名。
姉川の戦い 血原
小谷城
虎御前山城
大鳳山砦と中島城
丁野山城
山脇山 明智光秀陣跡


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