『どうする家康』聖地巡礼⑱ 牛久保城 一向一揆にはばまれて落とすのに5年かかった城

2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
『どうする家康』の聖地“潤”の旅。
三河一向一揆編は前回で終わったのだけど、その前後で家康が城攻めに苦心したこの城も取り上げておかなきゃならない!
ということで豊川にある牛久保城です。

牛久保城とは

別名「牛窪城」。現地の案内版によると、享禄2年(1529年)に一色城主であった牧野成勝(しげかつ)が築城。今橋城主でのちに吉田城主となった牧野信成(のぶしげ)の命令を受けて築城したと書かれていた。しかし諸々を調べてみると、江戸時代に書かれた三河地方の地誌書の『三河国二葉松(みかわのくにふたばのまつ)』では牧野保成(やすしげ)が築城し居城とした、とされているようだ。
いずれにしても成勝、保成は2人とも城主として牛久保城にいたことはあるようだ。
ここらへんは調べてもよくわからなかったので、ご存じの方、教えてください!

牧野保成は成勝からすると甥っ子で、今川義元の庇護を受けて牧野一族の実質的な惣領となったそうで、三河平定を進めていた松平家康にとっては今川方の牛久保城は「落とさねばならない城」。永禄4年(1561年)に家康が牛久保城へ夜襲を仕掛けたことから攻略に仕掛かったが、このときは失敗に終わる。さらに永禄6年(1563年)には今川氏真が自ら軍を率いてこの城を本陣にしたりと、『どうする家康』では城の名前だけでも出てきてもいいのになぁ、と思う。今川氏真が三河に向けて出陣したのはこれが最後だったというし、意外と重要な城なのです。

今回この城をとりあげた理由はそれだけではない。この城が落ちたのは永禄9年(1566年)。
なんと永禄4年から攻め始めて落とすまで5年もかかっている!
5年もかかったのはなぜかというと、ここで出てくるのが永禄6年(1563年)~永禄7年(1564年)に発生した三河一向一揆
三河の東側を平定しようとしたところで、お膝元の岡崎で2年に渡った大規模な騒乱が発生し、牛久保城攻めは一時中断をせざるを得なかったわけです。一向一揆をおさえたあとに再び牛久保城攻めにとりかかり、5年もかかって牛久保城を落としたのでした。

牛久保城 立地について

自分がピンスポを立てているGoogle Mapなのでごちゃごちゃしていてすみません。
左上の紫のピンが立っているのが岡崎城
牛久保城は右下のオレンジのピン。
一向一揆の主な寺院が岡崎城の南に位置する濃いオレンジのピン。

家康は三河平定のために牛久保城の攻略にとりかかったところで一向一揆が発生!
東三河を平定しようとしている牛久保城攻略にとりかかっているところで岡崎城の城下、こんな間近で反乱が起こったんですね。
きっと青天の霹靂で蜂の巣をつついたようだったのでは?と想像してみる。
これは恐ろしい!

牛久保城
岡崎城と牛久保城の立地 Google Mapより

牛久保城 縄張図

案内版にあった古図より。

牛久保城
牛久保城跡にある古図

牛久保城は一見、真っ平なところにあるように見えるが、少しだけ高くなっている台地の端に作られた平城。古図によると北から西にかけて二重の堀があったようです。(とはいえ牛久保城の古図は他にもあって、堀のあるなしは違っているそうです。)
さらに古図をよく見ると、堀で囲まれた曲輪らしきエリアには「御櫓」「御本丸」が描かれているのがわかります。御本丸に描かれているのはきっと御殿でしょうね。

城を取り囲むように武家屋敷が置かれていて、さらに北には町人の家が連なり、さらに奥には寺院があり、北側からの攻撃に備えつつ、城に向かってへの道はすべての道が曲尺手になっていました。「曲尺手とは直角に曲げられた道」の意味。曲げられる事によって先の見通しが効かなくなって伏兵を忍ばせておくことができますが、この時代には珍しく、現地の案内版によると「近世の城下町の先駆けをなすものだった」そうです。

牛久保城へ

『どうする家康』を勝手に応援すべく、2022年末から家康関連の城や砦、歴史的スポットをまわっていて、この日は三河武士達の居館跡の合間に牛久保城跡へ足を伸ばしました。

JR牛久駅の東側、牛久保駅出口から出て踏切を渡った先にある少し開けた場所に牛久保城跡はあります。

牛久保駅前 案内版より
牛久保地区観光案内

この付近には今川義元公墓所(大聖寺)や牧野一族から養子に入って牛久保城主となった牧野成定公廟がある。牧野成定は家康が攻めた時の牛久保城の城主でした。
その他にも武田信玄の軍師であった山本勘助の養父といわれる大林勘左衛門貞次屋敷跡(のちに牛久保陣屋が置かれていた)、そして山本勘助の墓がある長谷寺があります。そういえば、山本勘助は三河出身でしたね。勘助が諸国放浪をせずに三河で功績を挙げるチャンスをもらって徳川家康の目に止まったとしたら、歴史はどうなったのだろうかなぁと考えてしまう。他の三河家臣たちと同じように「主人にものを言う」軍師になったかもしれませんね。

 

牛久保城
牛久保城

この写真の道の左側の見切れているところに踏み切りがあり、その先がJR牛久保駅。
牛久保駅から踏切を渡って牛久保城跡に来た時には特に意識しなかったけれど、この道の先(右側)はしばらく行くと下がっているので「台地に築かれた城」ということが実感できる。

牛久保城
牛久保城の案内版

看板の先は広場のようになっていてこの周辺が牛久保城だったようだ。

牛久保城
牛久保城

写真内の中央にあるのは忠魂碑で、右側の石柱が牛久保城の城址碑。忠魂碑があるところが山のようになっていて、これは土塁?など推理してみたり。
案内版の看板にある古図から推測するのも難しい。

牛久保城
牛久保城址碑

牛久保城跡はこの周辺のみ。それ以外は宅地化されていて、わずかな起伏のみが牛久保城の名残になっています。

その後の牛久保城

三河の東側が徐々に家康に降伏していくのに対し、最後まで屈服しなかったのが牧野成定が城主だったこの牛久保城。しかし成定もとうとう永禄9年に降伏しました。以降は家康を支える国衆となり、牧野成定の子は家康から「康成」という諱(いみな)をもらうほどの関係となり、家康の三大危機のうちのひとつ「神君伊賀越え」に随行していたと伝わる。家康の関東移封によって牧野康成も家康についていき、牛久保城は吉田城に入った池田輝政の支城となりました。
牛久保城の案内版によると、元禄13年(1700年)に牛久保が天領になったことにより、牛久保城は廃城。行政の機能は江戸時代に建てられた牛久保陣屋に引き継がれていきます。

牛久保城 基本情報

  • 築城年:享禄2年(1529年)
  • 廃城年:元禄13年(1700年)
  • 築城者:牧野成勝(しげかつ)
  • 種類:平城
  • 天守:なし
  • 主なタイトル:-
  • 主な遺構:土塁???
  • 文化財指定:-
  • 所在地:愛知県
  • アクセス:JR牛久保駅からすぐ
  • 駐車場:なし
  • トイレ:なし
  • 売店・食事処など:なし
  • 女子城メグラー 難易度:★★★★★
    JR牛久保駅を出て踏切を渡ったらすぐという超駅近物件!遺構としては土塁らしき跡?しかわからないけれどしっかりとした城址碑が立っている。踏切を渡って北西方向に5分くらい歩くと武田信玄の軍師であった山本勘助の養父、大林勘左衛門貞次の屋敷跡とされる場所で、江戸時代に米津氏(よねきつし)が築いた牛久保陣屋跡があるのでセットでまわってみては?
    ※牛久保陣屋の標柱はないけれど、大林勘左衛門の屋敷跡の標柱のみ残っています。
  • 登城日:2023年3月25日

 

牛久保城 散策ログ

牛久保城の散策ログはありません。

 


 

牛久保城とあわせて行きたい! 牛久保陣屋

牛久保陣屋跡
牛久保城からは歩いて5分。山本勘助の養父である大林勘左衛門貞次屋敷跡に江戸時代になって牛久保陣屋が建てられました。
現在は遺構は残っておらず、位置を示す案内のみがあります。住所:愛知県豊川市牛久保町八幡口44
アクセス:牛久保駅から徒歩5分

 



ブログランキング参加中
更新の励みになります!ぽちっとひと押しで応援お願いします!
牛久保城
最新情報をチェックしよう!