有馬温泉② 秀吉の岩風呂と蒸し風呂遺構

有馬に豊臣秀吉が温泉を楽しむために築いたのが「湯山御殿」。阪神淡路大震災の際に極楽寺の庫裡が損傷し、建て直しをする際に御殿の遺構が発見されました。
今回はその展示施設であり、武将の湯治遺構としてはかなり珍しい岩風呂遺構と蒸し風呂遺構を紹介します。

太閤の湯殿館

入館料を払って「太閤の湯殿館」の中へ。中に入るとパネル展示の奥に岩風呂と蒸し風呂の遺構が露出展示されている。
復元展示ではない。遺構をそのまま見ることができるのです!

太閤の湯殿館 内部
太閤の湯殿館 内部

入口を背にして、向かって左側が蒸し風呂遺構右側が岩風呂遺構です。

 

岩風呂遺構と蒸し風呂遺構

発掘調査で出土した状態そのままで展示している岩風呂遺構。
秀吉の時代の「お風呂」は現代のサウナのような蒸し風呂が主流であり、お湯につかる入浴は珍しいものでした。

珍しい!お湯につかる岩風呂遺構

太閤の湯殿館 岩風呂遺構
太閤の湯殿館 岩風呂遺構

写真の左上の坂のような傾斜は岩盤で、一部をそのまま利用しつつ、岩の亀裂を伝ってお湯が流れ込んで湯船にたまる仕組みでした。湯船の底には酸化鉄の湯垢の沈殿が発見されていることからもこの岩の窪みが「湯舟として使われていた」のは間違いないそうです。

流れ込んでくるお湯というのも当時は珍しく、秀吉が仕掛けたアトラクションだったのでしょう。しかもこの仕組みを「作りだした」というところが、さすがの秀吉の名演出家っぷりよ

周囲には建物があった形跡がなかったということで、露天風呂の可能性が高いとのことです。
自分が作り上げた景色を楽しみながら湯あみをする。なんと贅沢な!

写真の岩風呂跡だけではわかりにくいので、再現した図もありました。
岩風呂にお湯をはった状態がこれだ!

太閤の湯殿館 岩風呂遺構
お湯がたまった岩風呂のイメージ

石積みできれいに造成された岩風呂は角がカクっと曲がっていて美しい。流れ込むお湯が風情があるねぇ。
しかもちゃんと金泉で再現されている!たしか秀吉の時代は有馬温泉の泉質といえば銀泉はまだ発見されておらず、金泉だったはず。やっぱり有馬温泉といえば金泉だよね~!

有馬温泉 豊臣秀吉の岩風呂遺構
岩風呂遺構 ハート形のようにも見える

写真の中央から下にかけてがくぼんでいて、周囲に10~20㎝の石が積まれている輪郭がはっきりとわかる。案内板によると、湯舟の大きさは一辺約2.1m、深さ50㎝。大人の男性一人が入れる大きさぐらい。まさに秀吉のためにあつらえられた岩風呂は、俯瞰して見るとハート型のようにも見える。

 

蒸し風呂遺構

岩風呂遺構の反対側にあるのが蒸し風呂遺構。今で言う「サウナ」です。

有馬温泉 秀吉の蒸し風呂遺構
有馬温泉 秀吉の蒸し風呂遺構

蒸し風呂遺構は半地下になっていて屋根があり、天井は低くてかがみこんで入る構造だったと考えられている。
向かって左側の壁の一部に穴が空いているように見えるところが入口で、かがみ込んで入るスタイル。浴室の広さは約1坪と狭いのだが、それは保温性を担保するためだったそうだ。
案内板には蒸し風呂の例として西本願寺飛雲閣にある「唐破風付き蒸し風呂」の写真があったが、あとは京都の妙心寺の明智風呂も同じ形式ですね。
ちなみに飛雲閣は秀吉によって築かれた聚楽第からの移設と伝わってきたけれど、近年の研究では江戸時代に建てられたという説が濃厚です。

 

案内版によると

すぐ隣にある源泉側(向かって右手)の浴室壁に噴気口があった可能性が高い。また、源泉から湯をひくための木製の樋(ひ)自体は腐朽して残っていないが、樋の跡に金泉の主成分である酸化鉄が沈殿したままの形で残っており、断面は方形であることが確認できた。樋は地中に埋め込まれていて、庭園の地下を横断し、温泉寺の方へ延びている。

太閤の湯殿館 案内板より

ということで、当時としてはかなりシステマチックに造られていたようだ。
成分分析で樋に酸化鉄が残っていたということで、やはりこの温泉施設で岩風呂でも蒸し風呂でも使われているのは「金泉」だったということがわかる。

では、どのように蒸し風呂を使っていたのか。
砕いた石の上に簀の子(すのこ)などを敷いて、そこに寝そべる入浴スタイルだったようだ。

「上屋」の復元部分だけでもへー。ほー。と興味深いのだけど、その下には実物の蒸し風呂遺構があって、まさに本物が見ることができる!
これがすごいんです!

このような遺構は初めて見たので大興奮!
建築オタクにはたまらない!

太閤の湯殿館 蒸し風呂遺構
蒸し風呂遺構(実物) 斜めに削られている

蒸し風呂遺構をよく見ると、右下が斜めに削られている。これは江戸時代に溝を造るために壊された跡ということで、この御殿跡が時代ごとに作り替えられたということがわかる。

 

発掘時の様子

遺構の展示はもちろん面白いのだけど、発掘当時の資料展示もこれまた充実していて面白い。

湯山御殿の発掘調査は4回行われているのだけど、その詳細は前回の記事で説明しています。

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2024年2月。兵庫県の有馬温泉に行ってきました! 有馬の湯は日本三古湯のうちのひとつ。その歴史は古代まで遡り、時代の権力者に愛され、戦国時代には豊臣秀吉が9回も訪れたという名湯なのですが、1995年1月の阪神・淡路大震災で有馬温泉にある[…]

 

①太閤の湯殿跡と伝えられた石組遺構の調査
1717年(享保2年)に出された有馬のいわゆるガイドブック『有馬山温泉由来』に「太閤の湯殿跡」として掲載されていた一辺約7mの石組遺構が出てきた!
発掘調査の結果、実は湯山御殿ではなく、元禄時代(江戸時代中期)以降のものだと判明!
そしてこの下から秀吉の湯湯殿遺構が出てきたのです!

②1965年(元禄8年)火災面の調査の様子
湯山御殿が取り壊されるとその後に極楽寺の建物が建てられ、その建物も1965年に火災によって消失する。当時の地面は焼け焦げていて、火災の勢いを示している。この時の調査で「建物の全面に石段があった」ことが確認されたそうだが、建物礎石の多くは取り払われていたそうな。

③園池の調査
庭園の池は取り壊された建物の瓦で埋め立てられていて、大量の瓦が出土した。その量はなんと1.5トン以上!徹底的に壊されていたのね。
完全な形で出土した平瓦の重さは1枚4kgもあったとのこと。
しかし、期待していた金箔瓦は出土しなかったとのこと。うーん。残念。

 

太閤の湯殿館 湯山御殿遺構 土層の断面図
湯山御殿遺構 土層の断面の復元

発掘調査の結果、出てきた土層の断面を復元しているのだけど、源泉から湯を引いた樋の跡や安土桃山時代・江戸時代の盛り土の跡などがこれでわかる。
秀吉の時代の源泉を引いた樋の上に、①で解説していた江戸時代の「7m四方の石組遺構につながる排水溝」が作られたのね。
詳しい解説図もありました。

太閤の湯殿館 土層はぎとり断面の解説
土層はぎとり断面の解説

安土桃山時代から1773年(安永2年)の火災層の断面まで、この地は何度も作り替えられてきたのね。

>>有馬温泉と太閤秀吉との関わりについてを解説!

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