2024年2月。兵庫県の有馬温泉に行ってきました!
有馬の湯は日本三古湯のうちのひとつ。その歴史は古代まで遡り、時代の権力者に愛され、戦国時代には豊臣秀吉が9回も訪れたという名湯なのですが、1995年1月の阪神・淡路大震災で有馬温泉にある極楽寺の庫裏の下から秀吉が築かせた「湯山御殿」の一部と考えられている岩風呂や庭園の遺構が発見されたのです!
今回はその御殿遺構を見に行き、珍しい金泉の温泉にもつかってきました!
豊臣秀吉が愛した有馬温泉へ
新神戸駅から電車を乗り継いで30分で有馬温泉駅へ到着。土地勘が無い私にとっては遠く感じたのですが、実際に行ってみるとアクセスが抜群に良い温泉地でした!
新神戸駅から30分で有馬温泉駅へ行けるというのは近い!近いぞ。東京駅からメジャーどころの温泉地に電車で行くなら近くて箱根、鬼怒川、那須塩原あたりだけどどれも30分じゃ行けない!
有馬温泉にはざっくり分けると2つの源泉があり、それぞれ「金泉」「銀泉」と呼ばれている。
- 金泉 鉄分と高濃度の塩分を含んでいて、湧きだした時は透明でも空気に触れて酸化すると赤褐色になる。舐めるとちょっとだけしょっぱい。
- 銀泉 発泡性があって無色透明のお湯。
温泉街を散策していると細い路地の先に突如と源泉が現れる。
天神泉源、有明泉源、御所泉源、極楽泉源、妬(うわなり)泉源は金泉源で、金泉源がある周辺は吹き出した源泉の影響で周囲が赤褐色になっている。この赤褐色の色はかなり強くて、私もこの金の湯につかりましたが、湯上りに軽くシャワーを浴びて温泉のお湯を落としたつもりが、体を拭いたらタオルに赤褐色の色がついてしまった!
豊臣秀吉はこの赤褐色の温泉をとても気に入り、「金泉」と名付けたという逸話が残るほど。
秀吉は自分のリフレッシュや部下たちのねぎらいも兼ねて9回も訪れたというほどの有馬温泉好き。湯山御殿を建てる際には、生活していた住民達には立退料を払って出て行ってもらったということだが、金払いが良かったようで恨みを買うこともなく、当時も民からは人気があったようだ。ほんと、人たらしねぇ~。
現在もその人気は継続中。有馬温泉駅から温泉街へ向かう間にある「湯けむり広場」には秀吉の像、赤い「ねね橋」のたもとには秀吉の妻の「ねね」の像が建てられています。
「太閤像」ではなく「茶人太閤像」という名称にこだわりを感じる。
秀吉とねねの像は有馬川を挟んで向かい合うように置かれています。
有馬の人は古今東西、秀吉が大好きなのね。
湯殿遺構
観光客でにぎわう有馬本街道(湯本坂)から少し離れたところにある秀吉の湯殿遺構がある「神戸市立 太閤の湯殿館」を目指してゆるく登りながら歩く。有馬温泉は山間の谷の部分に町が広がっていて、どんどん上に「町」が伸びていったんだろうな。細い路地と坂が多い温泉地です。
湯殿遺構へは「有馬温泉 銀の湯」を目指していくとわかりやすいです。
極楽寺 豊臣秀吉の湯殿遺構へ
有馬温泉では「豊臣秀吉が有馬に訪れるときに滞在する御殿があった」と伝えられていたけれど場所が特定されていませんでした。それが1995年の阪神・淡路大震災で極楽寺の庫裡(くり 禅宗寺院の台所のこと)が被災し、その下から秀吉が作らせた「湯山御殿」の一部とみられる岩風呂や庭園の遺構が出てきたんです!
極楽寺は浄土宗のお寺で、その歴史は古い。
極楽寺 ざっくり歴史解説
- 伝承によると開祖は聖徳太子。
- 奈良時代 行基によって温泉寺が作られる。
- 鎌倉時代 仁西が12の宿坊を作り、法然上人も訪れて説法を行った。
- 安土桃山時代 豊臣秀吉によって本堂の隣に湯治用の「湯山御殿(ゆのやまごてん)が築かれたが、慶長元年(1596年)の大地震で崩れたとされている。
- 江戸時代 湯山御殿は徳川家康の代にすべて打ち壊されたというが、御殿の建物の一部は三田にある心月院に移設され、極楽寺周辺では五輪塔が残るのみ。
平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で極楽寺は大きな被害を受けました。本堂は修復できたものの庫裡の損害は激しく、解体して古い部材を使って再建することに。その解体途中で太閤の湯殿跡が200年ぶりに出てきた!
神戸市教育委員会の発掘調査資料「ゆの山御てん」によると、発掘調査は4回実施されたそうです。
- 第一次調査
江戸時代の二枚の火災層が記録に残るとおり確認され、その下層から安土桃山時代、豊臣秀吉の湯山御殿跡が確認された。さらに一部の下層を調査したところ、その下にも遺構面があることを確認。 - 第二次調査
湯山御殿造成時の盛り土および石垣、その下層で湯山御殿造成当時の地面・地表土を確認 - 第三次調査
曲輪部分を中心に発掘 - 第四次調査
現在の極楽厳選付近のトレンチ調査
極楽寺の遺構としては天明元年(1781年)に再建されたときの極楽寺庫裏、安永2年(1773年)の火災面、元禄8年(1695年)の火災面が見つかり、湯山御殿の遺構としては、安土桃山時代~江戸時代初期の遺構面(これは秀吉の湯山御殿のもの)、安土桃山時代の遺構面(これは湯山御殿以前のもの)が検出されました。
今回はこの安土桃山時代から江戸時代初期にかけて存在していた湯山御殿の遺構、しかも秀吉の湯殿!という非常に珍しい遺構を見に来たわけです。
200円の入館料を支払って「太閤の湯殿館」へ入ると見えた。おぉ。庫裡だ!
写真は庫裡の後に建てられた建物で、その前にある石庭は湯山御殿の庭園を復元しています。
発掘調査調査資料によると、
庭園部分では一部を除き調査地の全域にわたって径lm程度の上坑が50以上確認されています。これらの上坑の一部には、植木の根を巻いたと思われる藁縄が遺存しており、その内側にはこの周辺の土とはまったく色調の道う土が詰まっていました。これらは植木の移植であると推定されます。
神戸市教育委員会の発掘調査資料「ゆの山御てん P.38」より
なお、採取した土壌の分析によって出てきた花粉から、アカマツ(またはクロマツ)、ツガ、アセビ(またはツツジ)、モチノキが植えられていた可能性が高いと判明している。
なお、庭園遺構は地下約1mのところに埋没保存しています。
ちなみに、写真の右側にある石の置物は「秀吉ゆかりの手水鉢」ということで鍋島藩菊池家に伝わっていたものだそうです。
案内版とともに傾いているのは、元々が傾いているから。この傾きには意味があるのだろうか?
湯山御殿の石垣!?
石庭の奥に目をやると・・・あれは石垣では!?
岩風呂遺構が見つかった周辺に湯山御殿に「石垣」があるとは知っていたけれど、Google Mapで「石垣・帯曲輪跡」を経路検索すると太閤の湯殿館からは「来た道を戻り、まわり込む」道を指している。あの石垣は湯山御殿の石垣とは違うのか!?
あれがまさに「湯山御殿の石垣」でした!
(詳しくは別の回でレポします。
太閤の湯殿館へ
地震で損傷した庫裏の建物の跡地には「太閤の湯殿館」が建てられている。
入ると正面奥に遺構の展示がある。
まずは入口を入ってすぐの展示物を確認。有馬の町や有馬温泉の歴史、そして秀吉と有馬温泉の関係を説明したパネルが展示されています。
京や大阪から近いことから有馬温泉には多くの有名人が訪れている。
平安時代には藤原道長・頼通親子、小野小町に和泉式部、在原業平。
安土桃山時代には秀吉ファミリーや関係者がいっぱい。他の戦国武将たちにもお気に入りの温泉はありましたが、秀吉は自分が楽しんだり傷を癒すだけでなく、部下を呼んで湯治をさせたり、信長とは険悪だった本願寺顕如を呼んで関係改善をはかったりと社交の場としても温泉を活用しました。前田利家や石田三成らも呼んで入浴させるなんて、まるで「社員の福利厚生」ではないか!
江戸、明治、大正・・・と見ていくが、必ずチェックするのがあの女性の存在。
この表には記載がなかったけれど、来ているだろうね。そう、
与謝野晶子。
私の永遠のライバル。
城めぐり、建築めぐりで日本のあちこちを旅するけれど、古くからの観光スポットにはいつも彼女の句碑が。
交通の便の悪かった当時からすると恐るべきフットワーク。日本だけでなくパリにも行っているもんな!
今の時代に旅ブロガーやらせたら最強だよ。晶子。
とまぁ、多くの有名人が訪れた有馬温泉。
かつての温泉街の建物は多くが立て替えられて様変わりしていますが、現在も細い路地はかつての面影を残しています。
建て替え前の「金の湯」。道後温泉のように建物を残してほしかった!
次回はいよいよ湯山御殿の岩風呂遺構と蒸し風呂遺構です。
有馬 瑞宝園
2024年2月に宿泊しました!
有馬温泉の温泉街からは奥のほうにあるため有馬温泉駅からは徒歩20分。しかも坂道を登るという少々アクセスは悪いですが、他の宿より安くて泊まりやすく、コスパの良いホテルです。夕食には神戸牛のしゃぶしゃぶ!おいしかった!温泉は「銀泉」に入ることができます。
秀吉が囲碁を打ったという碁盤の石がある瑞宝寺跡は散歩圏内です。