島原城 フォトジェニックな白亜の五層天守と武家屋敷を旅する

訪れたのは2004年とずいぶん前ですが、白亜の五層天守がとてもきれいで印象に残ったので紹介します。

長崎県にある島原城。その凄惨な歴史とはうらはらに白亜の五層天守はとってもフォトジェニック📸。とにかく美しいのでお気に入りなのです💕。

島原城とは?

築城主は松倉豊後守重政(まつくら ぶんごのかみ しげまさ)。
築城にかけては名手といわれたそうで、福岡の小倉城、佐賀の唐津城、長崎の平戸城、香川の丸亀城縄張り(設計)は彼によるものと伝えられています。
島原城は一国一城令(1615年)が出た翌年の1616年から7年かけて造られた城で、一国一城令の後に造られたということは、築城を制限した中で作っただけあって要所を抑えるための重要な城。松倉重政は幕府よりキリシタン弾圧の命を受け、島原城を築城しました。
現在の天守は外観のみ復元したコンクリートの復興天守だけど、五層の天守はもとといえば江戸時代初期に建てられたもの。規模は大きなものの破風などの飾りも無いシンプルなデザインでした。層塔型同じ比率によって五層目から一層目まで建てられているのできれいな正三角形になっていて安定感があり、どっしりと建っているように見えます。
天守は明治初期に壊され、昭和に再建されたけれど、実はその実態はよくわからず、数少ない資料を見ると壁は下半分は下見張りで、黒かったらしいです。
まぁ、当時のお役所の方々にとっては白黒半々にするより、白漆喰に見せかけたほうがかっこいいと思ったのかもしれません。現存12天守で国宝の姫路城も城漆喰ですしね。

島原城 案内図
島原城 案内図

天守も大きいけど敷地も広い。
本丸も広いけど、二の丸も広い。案内板にはないけれど、二の丸の先の三の丸はさらに広い!
これが高石垣の上に建っているのです。

島原の乱の引き金となった島原城

発端は、圧制や飢饉による農民一揆で苦しんでいたところに島原城の築城でさらに財政が悪化し、重い年貢や税金を課したことによって大きな反乱に広がって行きました。
そもそも松倉氏の石高はしょせん4万石。地方の小大名にすぎない。それなのに、身分不相応な立派な城を建ててしまった。堀で囲んだ本丸と二の丸、さらに三の丸、7つの城門と天守、49もの櫓!

本丸と二の丸の間には廊下橋がかけられ、有事の時には橋を落として本丸が完全に切り離せるようになっていました。
それでいて、藩主は普段は三の丸の御殿で生活していたそうな。
本丸、二の丸だけでもそうとう広いのに、なんだよそれ。って話😡。

松倉氏としては、島原の地の利を活かし、異国との貿易を想定していたそうで、貿易するならそれ相応の大きな城を!と勢いで建てたものの、築城中に幕府が貿易ができる場所を平戸と長崎の出島に限定してしまった!貿易で取り返すはずだったのが期待が外れ、取り返すためには年貢で挽回を・・・と、そこに天候不順による凶作も重なり、さらに農民から搾り取る。
重政の息子の勝家の悪政ぶりは特にひどく、人の生死にも税金を課したという話まで残っている。搾取とキリシタン弾圧に、ついに農民達が立ち上がり、天草四郎を頭にし、廃城となっていた原城に立てこもっていた天草組、島原組が結託して島原の乱と大きな渦になっていきました。

当時、江戸幕府は貿易するのは「キリスト教を布教しない国」を限定としていて、キリスト教厳禁であったので「信仰の自由を勝ち取りたかった」と考えていという説もある。
幕府から派遣された交渉人、「知恵伊豆」こと松平信綱天草四郎側の文書のやりとりの履歴からも、信仰の自由を願っていたということはあるけれど、キリスト教は信者を取り込むためのテクニックのひとつで、やはり「生活が立ち行かなくなっていた」というのが一番大きな理由では?とワタシは思うのです。

ちなみに、天草四郎軍は「退却して泣く泣く原城に立てこもった」と思われているけれど、当時の原城は廃城になったとはいえ、建物などはある程度残っていて、攻撃の拠点としてじゅうぶん機能したそうな。しかも、農民達の寄せ集めの軍ではなく、追放されたキリシタン大名の部下たちだった武士が参集して農民達を指揮していたため、軍隊として機能していたという様子が当時の合戦絵巻にも残っている。
でも、籠城は援軍が来ることを前提にすることなんだよな。ただ籠っただけでは何の解決策にもならない。
原城に立てこもった天草四郎軍に援軍が来るわけではなし、ポルトガルからの援軍を待っていたということだけど、本当に援軍が来ると思っていたのかなぁ。
歴史は勝者の物語というけれど、歴史から抹消された敗者の物語が近年の発掘の結果などでわかるようになることもあり、まだまだ歴史は変わっていくんだろうなーと思います。

前置きが長くなったけど、さっそく天守に攻め入る!でも、城に目覚める前のことだったので、写真はほとんどございませぬ。もったいないことをした・・・。

追記:2021年3月にキリシタン史跡をたどる旅をし、島原城、原城、日野江城や崎津の教会群などをめぐってきました。改めて島原城に行ったら気づいたことがたくさん!
いずれご紹介します!

 

島原城 天守へ

島原城 天守の入口
島原城 天守の入口

コンクリート天守なのが残念だけど入口はとても立派。
現在の天守はキリシタン関連の資料を展示する資料館になっています。ちなみに天守までは車で行けて、天守のすぐ前が駐車場。天守まで最も近い城となっています。
便利だけど、景観を損ねるのがちょっと残念。車を降りてあっという間に攻め入ることができました。

島原城の大砲
島原城の大砲

島原藩の大砲。「たいほう」というより「(大筒)おおづつ」なんじゃないかな。火縄銃よりは大きく、重量は120kgもあり、文献によると弾丸は約3km先に着弾したそうな!すごい威力!
1838年に造られたということだから島原の乱とは直接関係ないけれど、幕末にはこれで戦っていたのかな。

甲冑がお出迎え
甲冑がお出迎え

撮影用にかぶってもOKです。

館内の資料は撮影NGだったので撮影できず。十字架をモチーフにしていて、その十字架が隠されている像などありました。キリシタン文化って関東には無いものだからとても興味深い。
ちなみに、島原藩最後の藩主の松平忠和は徳川十五代将軍である水戸の徳川慶喜の弟。城に入ってすぐのところに藩主松平忠和が西洋式の軍服を着た写真が飾ってありました。

天守から眺めた有明海
天守から眺めた有明海

天守から有明海が見える!この景色は本当にきれいだった!

なるほど。この距離感なら貿易の拠点として島原を考えてここに城を作ったということも納得です。

眉山と平成新山
眉山と平成新山

天守の展望台かから見た眉山平成新山(だったと思います)。せっかく友達にガイドしてもらったのに忘れてしまいました。
いずれにせよ、東側には有明海が、西側には山の風景が広がり、晴れた日の天守からの眺めは最高です。

 

島原の乱 その後

島原の乱は一揆軍を制圧することにより決着がついたけど、幕府側のダメージも大きく、島原の地は荒れ果て、他の領地から移民を募集する羽目になってしまいました。
これを機会に「幕府には向かう様子があれば、潰す」という武断政治をしていた江戸幕府が、学問や教養によって統治する文治政治へと転換していくきっかけとなりました。力だけで抑えようとしても、必ず無理はくる。ということですね。

 

それにしても、これだけの城が石垣だけしか残らなかったのはもったいない。
天守の他に復元した櫓がありましたが、中は資料館になっているということなので見学は終了し、島原武家屋敷に行くことにしました。

島原武家屋敷から眺めた天守
島原武家屋敷から眺めた天守

実は武家屋敷のほうから見る天守は石垣もうまく入るので一番美しく撮影できる。
天守の下に高石垣が広がり、この石垣がまた見事な屏風折れで、カクカクかっちり造られているのです。撮影するときには、ぜひ、石垣も入れて撮影してください!

この時は、東京からJALでばびゅーんと飛んで福岡へ。福岡から島原⇒雲仙にドライブして福岡に日帰りで戻ってきたという弾丸旅だったので写真は少なめです。
この時は確か、今はない「バースデー割引」で行ったんだったよな。値段的にはスーパー先得と変わらないと思うんだけど、なんとなく、「バースデー割引」って特別感&お得感がありました。

 

島原武家屋敷編へ続く

2004年の島原城
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