ニの曲輪
二の曲輪は三の曲輪と同様に南から入るようになっている。二の曲輪はの虎口は桝形になっている。
ニの曲輪 南虎口
二の曲輪の南虎口の両側にも石垣が築かれていて内桝形虎口のような形になっている。この上が二の曲輪なので、登ってくるとばっちり横矢がかかる。
南側の虎口から上がってくるとこんな感じ。
ニの曲輪は東側が平坦になっていて少し広め。写真のように登ってくる人が良く見える。
あぁ。この写真の奥に櫓が建てたくなる。
通路の外側でなく内側に倒れている石垣が多いのでなおさら通路が狭く感じる。南側の石塁が長さ約35m、北側の石塁が約25m。対馬の清水山城ほどの長さと高低差はないけど、引けを取らないかもしれない。
登り石垣のようだ!この石塁の上に城漆喰の塀が立っていたとしたら、壮観だな!
明智光秀の時代のものか、そのあとに入ったと記録がある加藤光泰時代のものかは判断が難しいところ。(なんせ、資料が残っていない!)
それにしても徹底的に破壊されているなぁ。
ニの曲輪 北虎口
北虎口は両サイドに石垣はられた虎口。この先に北尾根に続く道があると思えないくらい落ちている。
黄色いテープで通行止めになっているけれど、何もなかったら縄張図を見ながら半泣きになりながら降りて行ったことであろう。(遺構があるならそれでも降りる!)
北尾根にも石塁があるようなので、行ってみたかった。
周山城が築かれたのは天正8年(1580年)で、安土城が築かれたのはその4年前である1576年(天正4年)。
もしも安土城の前にこんな石垣たっぷりの周山城が築かれていたら、信長は光秀のことをもっと警戒したであろうか?
いや、安土城の後だったとしても実際に目の前にしたら「安土城よりもすごい城を造りやがって。」と内心、イラっとしたんじゃないか?
そんなことを考えながら二の曲輪を散策しました。
二の曲輪は縦に長く、そして両サイドに石塁が築かれているけれど、建物を建てるというよりは通路として使われていたのだろう。写真の中央奥にある黄色のテープが張っているのが北虎口。南側の虎口は右奥になる。横幅がどのくらいか、規模感は伝わっただろうか???
この登った先がいよいよ主郭。
両側に積まれた石垣の間を歩いて主郭に向かった人達はどのように思っただろうか。両側の石垣によって道は狭められて登る。圧迫感があるよなー。格式が高い場所に向かわされている緊張感をうまく演出している。
ニの曲輪の石垣が光秀時代のものだとは断言できないけれど、曲輪の狭さや虎口の造りやだいたいの縄張プランは光秀時代のものだったのでは?と思う。
城は戦に備えた建物ではあるけれど、几帳面なほど細かく、様式美にこだわって築城しているように感じました。
>>天守台のあった本丸と周山城一の絶景「西尾根」の石垣編 へ続く
・週間日本の城
- 1
- 2