2021年4月の新府城 桃源郷オフの続きです。この日はさらにお楽しみがありました。
新府城と合わせて行きたいと思っていた隠岐殿遺跡にも行ってきました!
隠岐殿遺跡は、真田昌幸パッパの弟であり真田信繁の叔父である真田信尹の屋敷跡ではないか?という説があります。
そしてこの隠岐殿遺跡がまた、桃源郷だったんです!
隠岐殿遺跡 基本情報
- 築城年:天正年間か?
- 廃城年:?
- 築城主:?「隠岐殿」という周辺の地名から真田信尹という説もある。
- 種類: –
- 天守: –
- 主なタイトル: 別名「真田氏屋敷」
- 主な遺構:2008年の発掘調査で礎石建物、掘立建物跡が見つかったが埋め戻されている。
- 文化財指定: –
- 所在地:山梨県韮崎市中田町
- アクセス:JR中央線 新府駅から徒歩15分
- 駐車場:あり 40台 無料
- トイレ:無し
- 売店・食事処など:無し
- 女子城メグラー 難易度:★★★☆☆
新府駅から徒歩で行けるがまわりは何もない桃畑。城址碑らしきものも案内もない。桃源郷の季節であれば観光客が多いのでわかりやすいが、見つけにくいと思う。城跡として公開されている場所ではないので、トイレ、売店などはありません。
が、桃源郷の季節は絶景!城好きでなくても一度は行ってみたい場所です。
隠岐殿遺跡は、韮崎市の発掘調査報告書によるとかなり広大な広さであったのですが、戦国期の遺構があるとは調査をするまでは誰もわからなかったとのこと。900m×400mの敷地のうち、30m×30mが真田信尹の屋敷跡と考えられています。
隠岐殿遺跡は、東西900m、南北400mの範囲とされており、埋蔵文化財包蔵地の多い市内において新府城、能見城などとともに最大規模を誇る遺跡である。
本遺跡は、これまで発掘調査が実施されたことは無く、市教育委員会の遺跡台帳には縄文時代から古代の遺跡として登録されているが、遺跡の内容は明らかではなかった。
発掘調査の結果、市教育委員会調査区では、中世の礎石立建物2棟、掘立柱建物1棟が検出され、輸入陶器をはじめ、茶入れ、天目茶碗、茶壷などの国産陶磁器などが多数出土している。建物の性格は明らかにできないが、出土した遺物から16世紀中頃のものとみられ、武田勝頼が天正9年(1581年)に築城した新府城との関連が注目されるところとなった。
山梨県韮崎市発掘調査報告書 隠岐殿遺跡II P.7 第4節 遺跡概要より
これがなぜ、真田信尹の屋敷跡と結びつけられたかというと・・・
- 戦国時代では権威の象徴であった輸入陶磁器や天目茶碗、棗などの茶道具、さらに碁石なども出土し、文化的な暮らしをしていたことが伺える。
- 礎石建物は当時はそれなりの身分でないと建てられなかった。
- 出土した「かわらけ」は、この土地のものではなく、真田がいた佐久や沼田(群馬の北部)で出土しているものと似ている。
- 周辺の地名が「隠岐殿」。隠岐殿といえば、真田信伊が名乗っていたのは真田隠岐守信伊。信伊の屋敷=隠岐殿と呼ばれていてもおかしくはない。
ただ、真田信尹がこの周辺に屋敷を構えていたのは、武田の臣下だった頃で、加津野家に養子に入っていた加津野信昌時代。真田姓を名乗ったのは武田氏が滅亡した後なので、微妙にずれが生じるのだけど、「ここはかつて、真田隠岐守信尹さまの屋敷があったところなんだよ。」という庶民の会話から通称「隠岐殿」と呼ばれたとしても違和感はないかと。当時の土地の名前の決め方なんて、そんなもんだと思うしね。
ということで、隠岐殿遺跡の戦国期の遺構=真田信尹屋敷の遺構と、ワタシは信じたい!
隠岐殿遺跡の遺構と見どころ
建物跡は発掘調査で見つかったものの、現在は埋め戻されていて桃畑になっています。
立地について
新府城から北東方向にある隠岐殿遺跡。新府城と同じ七里岩台地上に位置していて、現在は桃畑となっています。
武田勝頼が新府城へ本拠を移転した際に勝頼の家臣団も転居してきていますが、立地を考えると「さもありなん。」です。新府城にもとても近いです。
韮崎市の新府城 保存管理策定資料集によると、家臣団の屋敷ごと移転してきた様子がわかります。
また、館の移転は家臣団の屋敷の移転も伴った。『甲斐国志』には、山県氏(伊藤窪)・長坂氏(次第窪)・大学屋敷(同、小山田氏か)・甘利氏(同)・穴山氏(同)・青木氏(石水)などの屋敷跡が記載されているが、土塁に囲まれたこれらの屋敷は戦力を確保する上で必要であるとともに、新府城の防水機能を補完する意味を持っていた。一旦は入居したものの、新府城そのものと同様に未完成で、さらに整備を行っていかなければならない状況であったと思われる。
山梨県韮崎市 新府城跡 保存管理策定資料集 P.9「武田勝頼在城時代」より
しかしながら、この移転が武田信玄時代の家臣団の反発を買い、従来の家臣達の離反が相次ぎ、武田家臣団の弱体化を招いてしまいました。
隠岐殿遺跡 縄張図
縄張図はありません。
隠岐殿遺跡へ
新府城駐車場から車で7~8分で新府桃源郷に到着。途中の道は狭く、しかもこの時期は観光客も多いので運転は要注意です。
桃の木を眺めながら少し登ったところにある新府桃源郷。桃の花がきれいねぇ~。と思っていたらここが隠岐殿遺跡だった!
桃色と紫。これで青空だったら最高なんだけどなぁ。な桃源郷。それでもじゅうぶん美しい!
360度、どこを見てもピンク!文字通り桃源郷!!!
隠岐殿遺跡の中で真田信尹屋敷跡と考えられている範囲はで30m×30mくらいだったという。
輸入物の陶磁器、国産の陶磁器だけでなく茶器や碁石なども出土しているということで、文化的で風流な生活を送っていたんだろうなぁ。
この山の先に道路が通っていてさらにその先にある山が新府城。ここから見るとちょうど手前の山に隠れているけれど、距離感としては目と鼻の先だということがわかる。
真田信尹の資料自体が少ないため断言できないけれど、新府城から近く、家臣団が移り住んだと考えられるこの地に真田信尹の屋敷があったということは信じたいなぁ。
どこを見てもピンクな新府桃源郷。桃の花の季節なら新府城とぜひセットで行ってみてください。
おすすめ散策スポット
隠岐殿遺跡へ行ったら合わせて行ってもらいたい場所をご紹介。
龍岸寺
隠岐殿遺跡で真田信尹を感じた後は、北杜市にある龍岸寺で真田信尹のお墓参りはいかがでしょう?
龍岸寺は真田信尹の菩提寺で、信伊の墓とされる場所の墓石には薄くなってしまったものの、戒名の脇に「真田隠岐守信尹」と刻まれています。
信伊が晩年を過ごした屋敷は龍岸寺の近くにあったそうです。武田氏滅亡の後、徳川に仕えた後は間があいて蒲生に仕え、また徳川へ。慶長19年(1614年)に甲斐の巨摩郡に、領地をあたえられて御使番となりました。その時代にこの周辺に屋敷を構えていたのかもしれません。
ちなみにこの龍岸寺は武田氏が建立した寺で、戦乱の時期には荒廃したものの、真田信尹によって再興されたという。それゆえ、お寺の建物や屋根には武田家の家紋である武田菱と真田家の家紋である六文銭の両方が刻まれています。
これだけでも武田・真田ファンなら見る価値アリです!
龍岸寺
- 住所:山梨県北杜市長坂町長坂上条1666
- URL:http://ryuganji.com/
- アクセス:中央本線/長坂駅下車・タクシーにて約5〜10分
新府城
隠岐殿遺跡まで来たら新府城ももちろんセットでまわりたい!
新府城についてはこちらから。桜と遅咲きの桃の共演!出構と合わせて眺められる桃の花が最高です!
2021年4月、新府城オフで再び仲間が集結。今回は桜と桃の季節の桃源郷オフ。 新府城は桜の名所。桜と桃の花は通常は時期がずれるのですが、新府城のそばにある隠岐殿遺跡周辺も桃の花が咲き、まるでピンクの楽園!夢のような美しさなんです! […]
武田の城めぐり おすすめな本
武田氏滅亡
辞書のような分厚さの本に、武田氏が滅亡に至るまでや、どのように追い込まれていったかが濃縮されている一冊。
管理人もただいま平山先生の講座を受けつつ勉強中!
なお、大石泰史先生の「今川氏滅亡」と合わせてKindleで【2冊 合本版】『武田氏滅亡』『今川氏滅亡』として配信中。2冊買うならこのKindle合本版だと安くなるのでおすすめです!