霞城に行きたい人たちの信州オフ会。最後に訪れたのは高梨館。土塁と堀に囲まれた方形居館です。
高梨館とは
高梨館は北信濃の有力国人領主であった高梨氏が拠点とした館。館の背後の標高約688mの山に鴨ヶ嶽城(かもがたけじょう)という詰城を持つ。
武田信玄が信州に侵攻する以前は村上、高梨、井上、須田、大井、諏訪氏などの有力な国人領主がいた。高梨氏は信玄の北信濃侵攻の際には上杉方に属しました。
武田氏が天正10年(1582年)に滅亡し、織田信長が本能寺の変で倒れると上杉景勝が川中島一帯を支配することに。このタイミングで高梨氏は旧領に復帰。しかし慶長3年(1598年)に上杉景勝が会津に転封になると高梨氏も一緒に移り、高梨館は廃城となりました。
そんな高梨館は室町幕府の将軍邸であった花の御所をモデルに築かれたというだけあって、庭園跡の復元具合が素晴らしい。方形単郭の敷地の周りは土塁と堀で囲まれ、その高さと深さもお見事!なのです。
詰めの城があった東側の虎口(図では”東側小口”)が搦手であり、裏門があったと考えられていて、その真反対にある西側南小口が表門と想定されている。駐車場はこの図でいうと下(南側)にあって、現在は南側から中に入れるようになっているが、高梨氏館跡発掘調査報告書によると、南側の土塁には小口の形跡はなかったという。西側の出入口は奥にももう1か所あり、当時と変わらず今も土橋でつながれている。
さらに建物は高梨館の案内板に描かれていた遺構の配置図以外にも5つの建物跡があり、合計12棟の跡が見つかっている。
西側に平行に並ぶ2つの出入口は、まさに御所建築の特徴。高貴な方の出入口と通用口を平行に置いた造り方を模しているといえます。
高梨氏館跡発掘調査報告書 P.45 第32図建物址配置図より
高梨館の堀の周りを歩く
駐車場で車を降りると目に留まるのが見事な堀!
いやぁ。なんと見事なことでしょう!
本来は南側には入口が無かったのだけれど、今は入れます。この南側入口がすごかった!
築地塀が埋まった土塁!
なんと、発掘調査で土塁の数ヶ所を断ち切ったところ、中から築地塀が出てきたそうな!
出てきた築地塀には白色の漆喰が残っていたということで、高梨館の築城時には白漆喰の築地塀に囲まれたまさに御所風の館で、その後に土を盛られて土塁が作られたということがわかっています。
白漆喰の塀に囲まれていたのか。
なんと雅なことでしょう~
土塁と堀を眺めて歩いているだけでも魅入ってしまい、写真撮影が止まらない。
いつまでたっても中に入れない。
南西側の堀。この隅っこの角具合がたまらんっ!
表門跡
鴨ヶ嶽城に通じる東側の虎口が裏門だったと想定されているのに対し、この写真の西側の虎口が表門だったと考えられている。
本来はこの虎口の奥にさらに門があったようで、室町幕府の御所などは平行に2つ、格式の高い門と通用口の門を造ったことからも、うん。御所っぽい感じがする。
この奥にあったとされるもう一つの小口は土橋でつながっていて、後世も出入口として使われていたそうです。
入口の橋の下部を見て見ると・・・おぉ?土留めの石積み???
発掘調査報告書によると、この南側の小口は埋まっていたようです。
この石積みは後世のものかな?発掘調査によるとこの小口より奥にあった北側の小口では、土塁の内側に石列が見つかっていたようだ。
ところで、西土塁北側小口では土塁内側の南隅から連続する土塁内側裾部の石積とは別に、小口内側北隅から南に延びる石列が遺構検出面に認められる。
西側南小口
木橋がかかっているところが良い雰囲気。周囲は土塁に囲まれている。
この写真の左側の土塁の断面を観察してみると土留め?石が埋め込まれた状態になっていました。
>> これぞ御所の雰囲気!庭園がある贅沢な造りの主郭へ
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