三ノ丸
この時代の城の縄張りの呼び方は「曲輪(くるわ)」なのか「丸」なのか。どちらが正しいのかしら。牛久城の案内板には「丸」が使われていたので「丸」を使うことにする。
今、いるところは縄張り図でいう木戸口。緩い右カーブに沿って進んでいく。城らしくなってきたぞ。
・・・恐ろしい堀っ!😂
(今なら軍手さえあれば降りるけどねっ!)
二ノ丸
一本、奥まで道がのびているんだけど、ふと手前に左へ入る小道を発見。この左への道。ちょっと小高くなっている。
もちろん入ってみますわ。
二ノ丸に入って後ろを振り返って撮った写真。入口部分が少し高くなっているのがわかるかしら?そして両側には土塁。写真の中央は通ってきた道。その奥にある平場が三の丸です。
さっそく「II」とある二の丸の中に入ってみると左側には大きな土塁。さっそく登って周りを見てみると・・・
写真の手前が二の丸の土塁。間に巨大な空掘りがあって、おぉ!奥にあるのは通ってきた道ではないか!横矢かけ放題😍
ここまでの道のりを振り返ると、
・木戸口からゆるい右カーブで見通しが効かなかった。
・そしてすぐに大きな堀にぶつかる。
・堀の向こうの二ノ丸にはこんなに大きな土塁があって狙われ放題だったのね!
これは歩いている最中には気がつかなかった!当時は木々が刈られていたと思うけど、クリアーに見えれば見えるほど、この高低差は怖いわ。この二の丸の防御はすごいかも。
そしてその二の丸を入口から眺めてみる。
二ノ丸はけっこう広いのね。
二の丸の左奥には縄張り図にある謎の「C」の区画がある。二の丸を突っ切って竹藪の中をみんなで入ってみる。
おぉ。確かにちょっとしたスペースがあるぞ。「崖」というにはオーバーだけど、この段差をよじ登ってここまで来るのは至難の業。この謎の「C」の区画。謎だ・・・。そんなに広くはないスペース。サブ的な曲輪だったのであろうか。馬出にしては段差がありすぎてこちらからは攻撃しにくそうだ。
お城仲間の先輩方は縄張り図を見ながら、奥にある「I」の区画が本丸で、この「II」は二の丸か?あるいは、「II」の区画は本丸で、奥の「I」の区画は馬出しか?と推理している。
うむ。二ノ丸は建物を建てるには広さは十分かな。
だけど、木戸口を突破されるとここは一気に攻め込まれてしまうリスクがある。という説を聞いてそれも納得。たしかに、土塁をあがって攻め込んできた敵を迎え撃つことはできるけど、本丸だとしたら守りにしては心もとないなぁ。
もしかしたら「II」の入口には門が建っていたのかもしれないけど、自分がお姫様だとして(また「姫人格」。降臨。)、ここに住みたくないなぁ。
木戸口からの道が見えすぎて、落ち着かんっっっ!
で、二の丸に入る横道を「虎口」と書かなかったのはこれが理由。岡見氏の本拠であるとして、小坂城も東林寺城も虎口の部分はそこそこトリッキー。ここで二ノ丸が平虎口ってそれなりに違和感が。木戸口から二の丸の間の堀が巨大で畝が入っていたりと技巧的なのに対し、虎口がものすごくシンプルなんだよね。築城当時もそうだったのであろうか?あるいは、二の丸虎口は岡見氏の時代のままで、その手前の堀は北條の手が入っているのか??? 二の丸は建物が建っていたわけではなく、出撃場所だったのか?いやいや、二の丸がシンプルなのは、大手から主郭部に来るまでが非常にトリッキーでたどり着けないからあえて技巧的にしなかったのか??
など、謎はつきないです。
みんなでそれぞれの解釈を話しながらも二の丸こと「II」の区画を戻り、元来た小道へ。
ここからはまた、深い堀を眺めながら最も奥にある「I」の区画を目指します。
またあったよ!深い堀。
その堀を横目に見ながら歩いていたら突然細くなって急な左折れの坂道になった。
人を寄せ付けないような道の細さ。そして急な勾配。なんだか「特別なところ」に誘われている気がしてきた。
これこそが本丸か!?