牛久陣屋 河童と土塁と堀と木々と。~牛久沼周辺の城を巡る旅④

「牛久沼周辺の城を巡る旅」。最後は牛久城の後に行った牛久陣屋です。

「陣屋」というのは、領主の藩庁が置かれていた屋敷のこと。
いわゆる「城持ち大名」というのはごく一部で、幕府から城を任されるくらいのレベルに満たない大名は「住居政庁」の場所として陣屋で生活していました。
また、江戸時代に一国一城令が出て以来、幕府に制限されて大きな城は作れなくなってしまった。広大な藩領を守るためにはひとつの城だけではカバーできない場合もあり、「飛び地」となったところなどには城を築く代わりに「陣屋」が置かれたりしました。

ワタシのご先祖様はとある新発田藩の飛び地で武士をやっていたらしい。福島の郡山周辺だったのでてっきり二本松藩の農民か何かだと思っていたら、母方のご先祖様の出身は新発田藩の陣屋があったところ付近のようです。まぁ、名字をなのって武士をやっていたといっても農業をやらなきゃならない時期には畑を耕しているような半農な武士だった可能性が多いに高いのですが。

ワタシが今までに行った陣屋でこのブログに書いているのは会津の旧滝沢本陣。この場所は本来は民家でちょっとリッチな庄屋さんのおうちでした。戊辰戦争で松平容保公が出陣した場所ということで「陣屋」という扱いをする場合も。

場所は牛久城の外郭の西側で牛久沼に面したところ。現在は「カッパの碑」があるところを目指して歩く。

カッパの碑
カッパの碑

日本画の巨匠と言われた小川芋銭はよく河童の絵を好んで描いていたそうで、この辺の景色も気にいっていたようです。この碑は小川芋銭ををしのぶ碑だそうな。

カッパの碑
カッパの碑

現在はちょっとした広場になっているのみ。
牛久陣屋は戦国時代の城である牛久城の外郭部分を利用して築かれたそうです。陣屋があったのはカッパの碑があるこの一角だけでなく、写真の左側の垣根の奥に広がる畑も陣屋の敷地でした。
牛久陣屋は明治維新まで残っていたけれど現在は地形にその名残があるのみ。牛久城の西側にあった牛久陣屋。そのすぐ西側には牛久沼が広がります。

木々の合間から見える牛久沼
木々の合間から見える牛久沼

カッパの碑周辺は陣屋を思わせるものは残っておらず、ほとんどが畑。
あっけないなぁ。と思ったのだけど、その後に案内してもらった場所で、ときめく💕。
雑草が生い茂るところを歩ていくと、何やら怪しい場所が。

牛久陣屋の土塁
牛久陣屋の土塁

おっ?小高い丘みたいなのがあるぞ。土塁発見しました!
まさかこの先にが広がっているとか!?

牛久陣屋の土塁の奥には空堀が
牛久陣屋の土塁の奥には空堀が

広がっていた。

けっこう奥まで空掘が続いてます
けっこう奥まで空掘が続いてます

今まで見てきた牛久城ほどの規模ではないけれど、広さも高低差もそれなりにある。

堀の斜面に映える曲がった木
堀の斜面に映える曲がった木

左から二本目の木に注目! 根元がぐにゃっと曲がって生えている。
先に土塁&堀があって、そこに発芽。でも傾斜のところに発芽したから方向転換して上を向いて育ちました、ということなのでしょう。この木だって昔から生えているだろうけど、それよりもずっと前にこの土塁&堀があったってことだよな。何百年も残るってすごい。と考えながら写真に残しました。

右端にちょっとだけ写っているモデルの皆さまとの対比でどのくらいの深さかがわかるはず。浅くは見えるけど、普段はあまり人が訪れないこの場所のことだから、1~2mくらい埋まってしまったということでもおかしくはない。
この写真の右側にもちょっとしたスペースがあって、ここは何だったんだろうなぁ?と思ったんだけど、あまりにも木々が生い茂りすぎてて写真に撮ったらわけわかんない状態だった。ということだけ心に留めておこうと思ったのでした。
牛久陣屋の堀も見ごたえがありました。

朝9:30に牛久駅に集合して牛久陣屋を後にしたのは16:30。埋もれた城の探索を楽しんだ一日でした。
小坂城、東林寺城、牛久城、牛久陣屋。どれも興味深かったです。
いやぁ~。密度が濃かった!

牛久沼周辺の城を巡る旅。これにて終了です!

 

茨城県の城めぐりにおすすめな本


改訂版 図説 茨城の城郭
茨城県内の城めぐりには必須で、バイブル的な本です。

 

ブログランキング参加中
更新の励みになります!ぽちっとひと押しで応援お願いします!

 

牛久陣屋の土塁
最新情報をチェックしよう!