前回の続き。白河小峰城の二の丸から清水門を入った先の帯曲輪内の西側の帯曲輪門について書いたけれど、帯曲輪の続きです。本丸へは清水門から帯曲輪に入って左にある桜門、右の緩やかな坂を登ってまわり込んだところにある前御門の2つの門跡から入ります。
帯曲輪
清水門から帯曲輪に入り、ゆるやかに右に上がる東側の道がスタンダードコース。その合間に通過するのが竹の丸なんだけど、本丸を囲む帯曲輪の中でこの「竹の丸」だけ名前が付けられていて、広い平場がある。かつてここには「御湯殿御殿(おゆどのごてん)がありました。
竹の丸
帯曲輪に内包されている竹の丸。当時は御湯殿御殿の裏には竹林があったようで、おそらくそれが名づけの由来だと思う。竹の丸の北東側には隅櫓、手前の南東側には二重櫓が建っていました。
竹ノ丸 二重櫓跡
竹の丸二重櫓跡を背にして写真の左が清水門から回り込んで登ってきた通路、右が本丸の前御門。
2006年に行った時は、南御門を出てゆるりと降りた本丸南面の石垣、竹の丸の南西面の石垣が大きく崩れてしまい、前御門を出て清水門に至るまでのゆるい下り坂の道は閉鎖されていました。
現在はすっかり修復され、震災で被害があったとは思えないほど。
竹の丸側からの撮影だと三重御櫓と前御門の両方がフレームに入るのでおすすめ。
(写真は広角レンズで撮影していますが、じゅうぶん入ると思う。)
桜門
清水門から帯曲輪に入り、前御門とは逆側にあるのが桜門。桜門周辺も東日本大震災では石垣が一部崩れてしまっていました。左側が修復中の2016年の桜門。
2016年は桜門の先の帯曲輪門までは行けず、前御門までの道も封鎖されていたので桜門から本丸に入りました。
本丸の石垣のこの張り出している部分がメリハリ効いてて良き
白河小峰城の門は多くが内桝形なのだけど、この桜門も内桝形の門。石垣の隅はきれいな算木積みになっている。内桝形の門って、張りめぐらされた高石垣の中に自ら入っていく感じが怖いのよね。
桜門は清水門と比べると規模は小さいように見えるけど、狭い通路に入らされるので圧迫感がある。さらに右側に折れるので横矢もかけまくりで四方八方から狙いたい放題!ちなみに桜門はこの右に曲がったところにありました。
白河小峰城のガイドさんも「右から入る(前御門経由)と本丸ですよ」と声掛けをしていることもあり、桜門から本丸に入る人はごくわずか。でもこの桜門の造りはすごく良いので、石垣好きなら桜門とその先の帯曲輪門まではぜひ行ってみてください。
前御門
そして改めて紹介の前御門。桜門と同じく本丸に入る2つの門のうちの残りの1つです。明治元年(1861年)の戊辰戦争で焼失したのち、三重御櫓の3年後の平成6年(1994年)に当時の資料に基づいて復元されました。
竹の丸側から見える前御門が三重御櫓とセットで映える。高石垣も相まって、城内一のフォトポットです。
本丸
桜門、そして前御門から入るとそこは本丸。高い土塁が際立っている。
天守の代用として使われた三重御櫓
白河小峰城のシンボルで寛永9年(1632年)に完成した三重御櫓。戊辰戦争で焼失したのち、平成3年(1891年)に木造復元され、平成の木造復元ブームの先駆けとなりました。復元の際には戊辰戦争の弾痕が見つかった杉の木が使われています。
観光客がまばらだった2016年と異なり、今回行った2022年11月は紅葉シーズンとも重なり観光客が戻ってきていました。人が多くて撮影しにくかったので、三重御櫓の写真は2006年のもので。
木造の内部は2016年に行ったときはまだ新しい感じがしたけれど、2022年ともなるとだいぶなじんできました。
三重御櫓内の復元の際には戊辰戦争で受けた弾痕のある木材を使ったというのだけど、いまだ、どこかわからず。
案内板によると、三重御櫓と前御門は、「白河城御櫓絵図」や発掘調査にもとづいてそれぞれ1991年、1994年に復元されたそうです。
特に「白河城御櫓絵図」は城内の建造物の実測図であり、復元はこの資料をもとに設計しました。資材も発掘調査で出土した瓦片・釘等をもとに製作し、地元の木材をできるだけ使用しました。
白河小峰城 三重御櫓内「復元について」案内版より
白河小峰城「清水門復元プロジェクト」でふるさと納税したときのリターンで参加した城下町歩きツアーの際にこの「白河城御櫓絵図」を見ながら説明を受けたのだけど、清水門建絵図、大手門平面図、道場門平面図がそれぞれ残っていて、特に清水門は設計図のように緻密で寸法も書いてあり、これだけの資料が残っているなら三重御櫓も復元できるよなぁ。と感心しました。
三重御櫓を見学したら満足して帰りがちだけど、白河小峰城は本丸の土塁がすごいんです!
>> ここがみどころ!本丸の西側のテラス状になっている土塁!
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