2021年4月の岐阜県可児市の山城めぐり。
今城、久々利城、美濃金山城ときて最後は明智光秀が生まれて育ったという明智長山城です。
明智長山城とは
明智光秀が生まれて落城するまで約30年間を過ごしたと伝わる城跡。建築年代はいくつか説があるが明智城跡散策マップによると土岐頼兼により康永元年(1342年)に建てられたと書いてある。その後、頼兼の子孫である明智氏の居城となりました。弘治2年(1556年)に稲葉山城の城主であった斎藤義龍に落とされたという記録があり、このシーンは大河ドラマ「麒麟がくる」では明智光秀の叔父で城主でもあった明智光安が光秀に再興を託す、として描かれていました。
しかしながら城跡としては曲輪と考えられる尾根上の平坦地はフラット。後世の公園化による改変などもあり、遺構はほとんど残っていませんが、城のある高さと規模感は体感できます。
明智長山城へ
明智長山城の駐車場から散策スタート。駐車場は無料で10台ぐらい停められるようになっています。
写真の左側にある小屋ではいろんな種類の御城印が売っていました。
駐車場の手前には明智一族ゆかりの寺であるという天龍寺がありました。ここには明智一族歴代のお墓があり、境内には日本一大きな明智光秀公の御位牌があるそうです。
駐車場から歩いてすぐ。この「桔梗坂」の石碑が目印で、この奥に大手門跡があります。
大手門跡
ここが大手門跡。冠木門とうっそうと茂った木々の雰囲気がいい!足場は石畳が敷かれて整備されているので登りやすい。
この案内図の通り、尾根上に曲輪が続いているのだけど、上がってしまうと淡々と曲輪が続き、いかにも「城」というような土塁と堀のセットで囲まれているというわけではなく、フラットな作りです。
中ノ曲輪(ニノ曲輪)
左側をぐるりと迂回して右上にあるのが中ノ曲輪(二ノ曲輪)。
案内板によると左側に東出丸曲輪(一ノ曲輪)があるようですが、登ってくる間はよくわかりませんでした。
右側が登って来た道。中ノ曲輪からは大手道を登ってくる様子がよくわかる。
城のようでいて城ではないような。フラットなんだよなぁ。
中ノ曲輪のむかって左側に「切岸」という看板があったが、木が生い茂っていてわけわからず。
馬場
本丸曲輪(三ノ曲輪)の手前にある馬場。
東出丸曲輪が「一ノ曲輪」だったり、本丸曲輪が「三ノ曲輪」だったり、明智城跡散策路マップ上は同じ場所でも異なる名称がつけられていてよくわからない。
「七ツ塚」という石碑の後ろにはぽこぽことした7つの盛り土が。明智城跡散策路マップによると、こういういわれがあるらしい。
1556年の明智城での合戦の際に戦死した明智方の将7人を葬ったと言われています。
馬場には模擬の馬防柵。
雰囲気を伝えるためには、う・・・うん、いいと思う。とてもじゃないけど馬なんて登ってこられないけど。
本丸曲輪(三ノ曲輪)
写真の左側が本丸。
現地の看板によると、普段は城主は家臣とともに麓の屋敷にいて、この山城の建物は簡素なものだったという。
本丸の展望台から眺めた景色。展望台からはかつて荘園だった「明智荘」が見える。
ちなみにこのまっすぐ先に美濃金山城がある。
本丸を散策している同じツアーの人たちは展望台からの景色を撮影しているけれど、展望台からの撮影はさっさと済ませ、たぶん奥までは行かないだろうとひとり、西出丸曲輪を目指す。
西出丸曲輪
西出丸曲輪とされる場所は真っ平ではなく、この上に建物が建っていたのか?どういう使われ方をしていたのだろうか。
石出丸曲輪の先は緩やかに落ちていて、住宅街にそのまま降りれそうだ。
搦手曲輪
案内パンフや散策マップには載っていないけれど、搦手曲輪という案内がありました。
ここから先は城外へとつながるということで「搦手曲輪」とされているのだろうか?
このほかに台所曲輪、水ノ手曲輪、西大手曲輪、乾曲輪というのが北西にあるようですがツアーではまわりきれず。
明智光秀自身が出生やルーツは謎が多い。明智長山城は改変の影響があると思いますが、光秀の人生と同様、謎が多くて紐解くには難しい城でした。
明智長山城 散策ログ
右上のカメラアイコンの場所が大手門跡。30分の散策でした。
<明智長山城編 終わり>