2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
2023年1月。『どうする家康』の聖地“潤”礼で松平元康軍が第3話で攻め込んだ東条城へ行く前に、こちらにも行っていたよ、友国砦。松平元康(のちの徳川家康)が東条城攻めの際に築いたとされている砦跡です。
友国砦とは
永禄4年(1561年)に松平元康が三河統一のために東条城を落すべく奮闘したのが『どうする家康』の第3話。吉良氏のいた東条城を攻める時に築いた砦の1つが友国砦で、別名はおなじ「ともくにとりで」の読み方となる「朝国砦」。『どうする家康』には直接名前は出てこなかったけれど、一連の東条城攻めでは重要スポットなのでここで取り上げます。
友国砦に入ったのが松平忠次で、かつては東条松平家に従い、桶狭間の合戦で今川義元が敗れる前までは幼かった主君の松平亀千代(のちの松平家忠・東条松平家3代当主)の名代として今川方の軍事行動に携わっていました。松平元康が今川を離反して織田方についた後は亀千代と行動を共にしましたが、砦一つを任されるくらい信頼されていた人物であり、のちに松平の娘婿となり、松井松平家の祖となったというのも納得です。
友国砦 立地について
東条城から矢崎川を挟んだ南側に築かれた友国砦。松平元康の本陣が置かれた小牧砦は東条城の南西に築かれ、東条城の周囲を囲んでいたと思われる。小牧砦には本多広孝、友国砦に松井左近忠次が置かれました。
現在、周辺は宅地開発されているが、2000年初頭の写真を見ると見晴らしがよく、東条城までも見通しがきいていたようだ。
友国砦の跡とのシンボルのようになっている「王塚之古跡」の碑がある場所は階段の数段分、高くなっている。Google Mapで「友国砦跡」とピンが建っている場所は丘陵の端にあり、間に道路が通っていることから、王塚之古跡あたりもふくめて一つの山というか小高い丘だったのかもしれない。「王塚之古跡」の位置だけを見ていると、いくらまわりが見晴らしが良かったとして、木が植わっていたら見えないなぁ。と思っていたけど、裏の丘陵を含めて「友国砦」であるならば、納得できそうです。
なお、東条城を囲む砦としては友国砦の北東に「津平」という地名があり、津平砦も築かれたそうで、津平砦も松平忠次が守備を任されていたとされています。友国砦、津平砦、そして本陣が置かれた小牧砦。どこも東条城から徒歩30分ほど。囲まれた東条城の吉良義昭の心中を考えると気の毒でなりません・・・。
友国砦 縄張図
縄張図はありません。
友国砦 見どころ
友国砦があった場所には遺構はありません。
友国砦へ
吉良町の産業道路から住宅街を中に入った場所にあったとされる友国砦。写真はGoogle Mapのストリートビューでみた友国砦の周辺。右側の小山になっているところがGoogle Mapで友国砦のピンが立っている付近。一般的に「友国砦」と案内されているのは「王塚之古跡」で、それは写真の左側の赤い丸で囲まれた垣根で囲まれたところです。
垣根の中の階段を数段登ったところに「王塚之古跡」の碑がある。
王塚之古跡の碑のそばには謎の平たい石。コンクリートで固められているのでうむ。謎。よくわからない。
王塚之古跡と友国砦があったとされる小山。周囲はこの碑のまわりに団地があるくらいで畑になっていて背の高い建物は無く、ここに登ったら東条城がよく見えると思う。
「王塚之古跡」とは?
ところで気になるのが「王塚之古跡」とは何だろう?ということ。
調べてみると、1159年の平治の乱に関する碑とのことでした。これ以上調べると平治の乱をおさらいすることになっちゃうのでここでは取り上げません。興味があるようなら調べてみてください!
友国砦 基本情報
- 築城年:永禄4年(1561年)
- 廃城年:?
- 築城主:松平元康?
- 種類:?
- 天守:なし
- 主なタイトル:-
- 主な遺構:なし
- 文化財指定:-
- 所在地:愛知県西尾市吉良町友国王塚14-10
- アクセス:車でしか行ける気がしない。東条城から徒歩30分
- 駐車場:なし
- トイレ:なし
- 売店・食事処など:なし
- 女子城メグラー 難易度:★☆☆☆☆
周辺に駐車場は無く、バスなどもよくわからない。東条城までは上横須賀駅からバスが出ているらしいが、そこまでなんとか行った後は徒歩30分。公共交通機関では行きづらいのが難点。城址碑も含めて遺構は無いので車ならおすすめだが公共交通機関派にはあまりおすすめしないです・・・。
友国砦 散策ログ
散策ログはありません。