2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
2022年11月。松平のルーツをたどる旅として、松平発祥の地である松平郷の松平氏館を散策した後は、近くにある松平城へ。
徳川家康もとい松平元康を支える個性豊かな家臣たちは、そのご先祖様達も松平家を支えてきた者がいる。『どうする家康』を楽しむには彼らのルーツも知るとさらに面白くなります!
松平城とは
別名、郷敷(ごうしき)城。応永年間に松平氏の始祖である親氏が築いたとされる。
「週刊 日本の城」の松平城編によると、親氏は昼は居館で過ごし、夜は松平城に就寝していたと伝えられている。居館は松平城のふもとにあったとされていて、近いとはいえ夕方には登ってきたのか?と思うと大変だな。
現地の案内版によると、跡を継いだ二代目の泰親がそ信光とともに岡崎市の岩津に進出して岩津城に移ってからは、信宏の居城となったと伝えられているそうです。
ここで登場人物を整理する。泰親が親氏の子か弟かが定かではないので完全にたどることは難しいのだけれど、
泰親(やすちか) 親氏の弟。松平宗家の二代目。一説には親氏の子とも伝わる。信光と岩津に移る。
広親 親氏の長男(庶子)。母親の身分が低く、嫡子の信光をサポートする家老とした。
信広 親氏の子(庶子)で次男。岩津に進出して岩津城を攻めたときに負傷して松平郷に留まる。松平郷松平家(松平太郎左衛門家)の祖。十八松平にはカウントされない。
信光 親氏の子で三男で嫡子。泰親とともに岩津に移る。松平宗家の三代目。
※信広、信光は泰親の子との説もある。
ということで、松平郷には信広が残り、その系統は明治維新までこの地を治めました。
ちなみに親氏の長男とされ、松平宗家の家老となった広親の子孫が、のちの徳川家康の時代に「徳川四天王」と呼ばれた酒井忠次につながります。
松平城 立地について
松平郷から東南の標高300mの山にある城。といってもまわりがすべて「山」で、松平氏館同様に「隠れ里」のような雰囲気がある。曲輪のある西側以外はすべて急峻な斜面に囲まれている。交通の要所であったかつての街道である国道301号に面している。
松平城 縄張図
主郭の西側に3段の細長い曲輪が配置されている。二の曲輪から主郭にかけて途切れながらもぐるりと横堀がまわっている。現地ではよくわからなかったけれど、現地の案内版の縄張図によると、ところどころ竪堀もあるようです。
横堀がまわっているものの曲輪の虎口が特に技巧的なわけでもなく、高い土塁もない。山城を造り始めた室町期の名残がある城です。
松平城へ
松平郷駐車場からだらだらと続く緩やかな坂道を登って松平城へ。あの山にあるのが松平城だ!
まわりこむようにさらに登ると松平城への登城口発見。松平城の北側の入口です。
写真は状態がよかった本丸にあった案内版なので主郭に「現在地」の表示があるけれど、登城口にも案内版があるので、そこで全容を把握しておくことをおすすめします。
松平城は松平氏館や大給城などとともに松平氏関連遺跡として国の史跡に指定されているので整備されていて登りやすい。数分登ると分岐が見えてくる。
左:「主郭」 右:曲輪4
とあったのだけど、迷わず右へ。いきなり主郭に行くなんてもったいない!
ちなみにこの分岐を左にすすむと、二の曲輪まで一気に登る主郭へのショートカットとなります。
四の曲輪
主郭の西側に広がる曲輪のひとつ。平たい城内最大の大きさの曲輪です。
松平城は西側に曲輪がある以外は急峻な斜面ということだけど、確かに曲輪の縁から下をのぞき込んでみるとストーンと落ちていて、とてもじゃないけど上れるとは思えない。
この日は詰めこんだスケジュールだったので、(松平郷って本当に山の奥深くにあって、時間がかかるのよ。)この先に櫓台と呼ばれる場所があることだけ頭に入れて次へ。
ちなみにこの四の曲輪の奥は北西に突き出ていて一段高くなっていること、当時の街道出会った国道301号に面していて見通しが良いことからも「櫓台があったのだろう」と想定されているそうです。
四の曲輪から先は2つに分岐していて、登ると三の曲輪、平坦な道を行くとその先には井戸跡がある。井戸跡まで行きたいところだけど、時間の都合により省略。三の曲輪を目指します。
ちなみに後から「週刊 日本の城 松平城編」で調べたところ、
谷地形の最も奥まったところにあり、井戸の周囲は平坦地を設けて井戸曲輪としていた。井戸は素掘りで、直径1.5mほどあり、現在は埋もれて水は確認できない。
とのこと。井戸は現在はわからないけれど、曲輪として削平されているところはちょっと見てみたかったな。
便宜上、三の曲輪へはこの坂道があるが、どこが本来の虎口なのかは断定できないようだ。
三の曲輪
四の曲輪から続く道を登るとすぐに三の曲輪。木や雑草を刈ったところだけみると2~3人が通れる位のスペースに見えるが、横幅はそこそこある感じ。そして土塁があるわけでもなく、技巧的ではないのね、と改めて感じる。
二の曲輪
三の曲輪を通り抜け、二の曲輪へ。二の曲輪はだいぶ木が刈られているので広く感じる。これまた土塁があるわけではなく、すごくデジャブ。
二の曲輪から先の主郭への道は少し険しいけどほどなく主郭へ到着です。
主郭
主郭は山の頂上である標高300mのところに築かれている長さ40mの楕円形の曲輪。きれいに削平されている。
主郭から二の曲輪の方向を眺めると、二の曲輪から登ってくる様子がバッチリ見えるのね。
主郭には大きな岩がゴロゴロ。わざわざ運んだのではなく、もともとあったものか。
城址碑が立っている岩も大きくて素敵だけど、周囲を見回すと「このエリアは磐座(いわくら)か!?」と思うような大きないい岩。
城内を登っているときにも岩や岩盤はあったこと、主郭にも大きな岩があり、石垣用の石を調達するには困らなさそう。
だけど石垣はまだ城づくりに適用されていなかった時代。室町時代の山城の雰囲気を十分に味わいつつも、横堀を巡らせて、ところどころに竪堀を入れるのは時代がもうちょっと後の戦国期と思われるわけで。(時代的に、武田信玄の天正年間の三河侵攻に備えてか!? 浅野文庫の「諸国古城之図」では横堀がぐるりと一周巡っている)松平城の主郭の南にある横堀は松平城の見所のひとつでもあるそうなので、横堀と竪堀を見てみたいものです。
その後の松平城ですが、天文年間(1532~55年)には大給松平氏の焼き討ちにあい、松平郷松平氏は大給松平氏の与力になったそうで、十八松平の中にカウントされるほどの勢力ではなくなりましたが、明治維新まで代々この地を治めました。
松平城 基本情報
- 築城年:応永年間(1394~1428年)?
- 廃城年:1590年(天正18年)? 徳川家康が関東に入った頃に破却された?
- 築城主:松平親氏
- 種類:山城 連郭式
- 天守:なし
- 主なタイトル:-
- 主な遺構:曲輪、横堀と短い竪堀、井戸
- 文化財指定:国指定史跡
- 所在地:愛知県豊田市松平町三斗蒔15
- アクセス:名鉄豊田線の豊田市駅から「とよたおいでんバス」大沼行きで40分。松平郷バス停下車して徒歩5分。
車でしか行ける気がしない・・・。 - 駐車場:あり 松平郷駐車場(入口広場)
- トイレ:あり 松平郷駐車場(入口広場) ただし、2022年11月時点では閉鎖。松平郷までいけばあります。
- 売店・食事処など:無し
- 女子城メグラー 難易度:★☆☆☆☆
松平氏館跡と同様、豊田市駅から「とよたおいでんバス」が通っているものの、アクセスは悪く途中で降りても山の中でコンビニもない。何もない!
「とよたおいでんバス」の松平郷バス停または松平郷駐車場(入口広場)まで出れば歩いて5分で登城口に到着する。
車でしか行きにくいのが難点だが、登城口から先は若干の山道であるものの、さほどしんどい山登りではない。とはいえ登山靴のほうが安心です。
松平城 散策ログ
登城口から往復20分弱。途中、若干の山登りはあるものの、整備されていて歩きやすい城めぐりでした。
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