2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
2022年11月。松平のルーツをたどる旅。松平郷の松平氏館から徐々に領土を広げて平地に向かっていきます。今回はその中でも国指定史跡「松平氏遺跡」のひとつ、三河では珍しい石造りの大給城です。
大給城とは
松平氏の築城と考えられているが、もとは長坂氏の城で、松平乗元の祖父の松平信光が攻め落としたものを乗元とその息子の乗正が改修したという説もある。
松平乗元は大給松平家の祖で、松平家の祖の親氏から数えて4代目の親忠の息子です。
大給城は国の史跡である松平氏遺跡のうちのひとつなので整備状況が良く、山城だけど散策しやすくなっています。
松平郷へ入る街道にあり、松平氏館、松平城、大給城と徐々に南下してふもとを目指して領地を広げていったことがわかる。
現在見られる主な遺構は、天正12年(1584年)頃に大給城から細川城へ居城を移した後の、豊臣秀吉 VS 徳川家康 の小牧長久手の戦いの際に、徳川氏または豊臣大名に改修された時のものと考えられています。
大給城 立地について
標高204mの急峻な山頂に築かれていて、西側には九久平(くきゅうたいら)の集落が見下ろせる。この九久平は「①足助街道と新城街道の交差点、②巴川の水運と陸上輸送との中継地」という交通の要衝でした。
大給城 縄張図
主郭を中央に東西南北の尾根に階段状に曲輪が置かれ、堀切、石積み、竪堀と岩盤でガチガチに防御ラインがつくられている。
これだけ石積みで囲まれた城は三河では珍しい。
南側の曲輪に到達するにはけっこうなデンジャーゾーンを突破しなければならないようで、今回は南側までには行きませんでした。
※縄張図によって、石垣で2段に分かれたエリアを主郭1と曲輪2としているが、今回は大給城の案内版の縄張図をもとに案内するので「主郭1西側」、「主郭1東側」とします。
大給城 見どころ
- 案内版がある場所の堀切と虎口 さらに曲輪2の虎口も見事!
- 各所にある石積みがとにかく見応えがある。
- 北側の水の手が圧巻!少し降りる必要はあるが、草木は刈られていて歩きやすい。
大給城へ
国道301号から南に入り、駐車場に車を停めて数分歩くと大給城への登城口に到着。途中にも登り口のようなところがあったけど、看板があるのでそれを目指して歩いてくださいな。
登城路は整備されていて山道だけど歩きやすい。
数分歩くと分岐があって、右に進むと松平乗元の墓所がある。遠目から見えたので今回はそこまで行かずに左折して大給城を目指す。
そして数分で城域に到着。
城内へ 堀切と虎口
城址碑よりも先に目に入るのが、すごい!堀切だぁ~!
尾根をバスっと断ち切った堀切。
近くには案内版もあり、どのルートで向かうかを縄張図をもとに(ワタシ以外が)確認。この日は「松平郷に行って徳川関連の城をまわるりょ」というだけで、ミステリーツアー状態。大給城は初めて。
ちょっ、大給城ってこんなにすごいの!?松平城のシンプル連郭式縄張と比べてものすごく技巧的じゃん!
入口の堀切ですでにものすごい土木量であることがわかる!
左に堀切。これは下がっていく。右に虎口。これはゆるりと上っていく。
堀切のほうは岩盤をかち割っているだけかと思いきや、よく見ると石が積まれているではないか!堀切の先は進まなかったけれど、ちらっと見ると左側は土塁で、堀底には巨石がバラバラとあり、不規則だし、これは上から落ちてきたものか?
そして虎口は両サイドに石積みがあった名残が。裾のほうは平たい石がきれいに積まれているではないか!
虎口の向かって右側(北側)は、岩盤をそのまま利用しつつも、必要なところにはしっかり石積みがされている。中に入った曲輪2はどうなっているのだろうか?
虎口を通って曲輪2へ向かいます。
虎口に土塁。切り岸も見事!な曲輪2へ!
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