上ノ郷城 主郭編。現在はミカン畑となっているニの郭、発掘調査をされた東郭を眺めて主郭へ登ります。
気分は『どうする家康』の上ノ郷城攻めで戦った服部半蔵など伊賀の忍者の気分
上ノ郷城 主郭
上ノ郷城の主郭へ登る。南側は段々になっているので高さはあるけれど登るのはきつくないです。二の曲輪からは数メートルの高さ。
「上」「ノ」「郷」「城」「跡」の看板。ここから南側を眺めてみるとこんな感じ。ちょうど傘をさしている人がいるのが二の郭。
大河ドラマ『どうする家康』的にはこの切岸の下から忍者達がよじ登ってきた感じ!?
上ノ郷城の駐車場にあった案内版によると、平成18年(2006年)以降に数回にわたって主郭と東郭の発掘調査を実施しているそう。主郭は現在の縄張図を見ると西側と東側の2つに分けられているようにみえ、段差があるのだけど、発掘調査の結果、西から東にかけて5つの区画があったことがわかっています。火縄銃の弾丸、金銅製金具、数珠玉、硯、鉢、甕、小皿などが出土し、柱穴も出てきていて、主郭には7~8棟程度の掘立柱の建物が建っていたと考えられています。井戸もあれば井戸のそばから焼土混じりの土も出てきて台所のようなエリアがあったと想定されています。「地方豪族が居住していた城」というイメージが沸いてきます!
主郭の東側を撮った写真。主郭の虎口付近から撮影しています。
主郭の発掘調査では、大手門(写真の奥)とそれにつながる石造りの階段(手前側)が出てきました!
主郭の虎口にこんなすごい石造りの階段があったとは。階段は大量の石を除去したら出てきたそうです。城の作り替えの際に石で埋められてさらに整地されている事がわかっています。
上の写真と近しいところの発掘調査時の写真がこちら。(上の写真と全く同じポジショニングというわけではないです。)
写真の左下に見えている石列は内側に向けて石の面が揃えられている。解説によると、塀か土塁の基礎部分だったと考えられているそうです。
四角く掘られている部分は調査のために掘ったもので、掘ったところからは石が見つかったということで、上ノ郷城は築城後に主郭を埋め立てて、さらにもう一度、城を造り直しているということがわかったそうです!
深さは浅く、さらっと埋め立てて整地して造っているような感じ。立て直す時には石を外すより埋めて立て礎石を置いた方が、工期が短くてすむのでしょうね
主郭の北西側は木が刈られていて北側は開けている。現在は道が通されているのだけど、発掘調査では一段高くなっていたようだ。
主郭の北西部は石を積んで土留めとして、一段高くなっていたことがわかっている。主郭はもともと一番高いため、この一角が最も標高が高いところとなり、城内では最も格式の高い建物があったと想定されているので、城主の館だったのかな?と想像してみたり。
石積みの高さは20~50cmということなので階段を造るほどではなかったのかもしれない。(階段の形跡はなさそうだしね。)手前の南東部分の石積みは直角ではなく緩くカーブになっていて、この形状!美しい!
そしてこの開けている主郭の北西部から眺めると、改めて断崖に建てられていたということを実感。二の郭、東郭と経由して登ってきた南東部とは大違いね。
現在は木々が生い茂っていてよくわからないのだけど、この見晴らしの良い主郭の北側には北郭がありました。
北郭は岩盤を削って平坦面を造っている。郭の幅は4~5m。大きさ的には帯郭といった感じだったのでしょう。郭のふちにも柱穴が並んでいたという。どんな建物が建っていたのであろうか。
改めて見てみると広い主郭。
「上」「ノ」「郷」「城」の看板の裏側は資料や現地の案内が貼られているのでこちらも要チェック。上ノ郷城の推定復元模型の案内や周辺案内図が貼られていました。
この前に立ち寄った蒲郡市博物館に上ノ郷城の推定復元模型があるのかな?と思ったのだけど、模型があるのは西部公民館。別の場所でした。残念。
うん。発掘調査の結果通りに西側の奥が石組で一段上がっている!このような建物があったのでしょうね。
縄張図によると主郭の北東側には井戸があり、発掘調査でも井戸が出てきたのだけど、現在はよくわからない状態になっている。
蒲郡市博物館の展示解説によると、「右手前の穴は井戸」とあるのだけど、写真中央の四角い石組みのほうが井戸っぽい。
南側(写真左側)は柱穴が密集している。このエリアからは焼土も混入していて、台所のような施設だったのでは?と考えられているようです。なるほど。井戸の近くに台所というのは納得。生活感あふれるではないか。さすが、居住としていた城。
そして主郭の北東部のさらに奥(井戸のもっと奥)側は削られている。
東郭まで降りられるようになっている。昔は東郭は農地とされていて、そこに降りるためのものだったんじゃないかな。
そのほかには、主郭からは50cm×60cmの小さな方形土坑(四角い穴)が見つかっていて、穴を囲んでいるように四隅には石が置かれていました。穴の中には34枚の土師器皿が見つかり、儀礼で使われたのかもしれない。確かに穴の四隅にのみ石が置かれて土師器皿が埋められていたなんて、宗教儀礼や祭礼のようにも思えてくる。
その後の上ノ郷城
永禄5年(1562年)2月の合戦で城主だった鵜殿長照は討ち死に。長照の2人の息子である氏長と氏次は徳川方に捉えられ、今川方の人質となっていた正室の瀬名姫と息子の竹千代(のちの信康)、娘の亀姫と人質交換で今川方へ戻っていくのでありました。
『どうする家康』では元康の母の於大の方が「旦那の久松長家に城を与えてくれ」と猛烈プッシュしていましたね。鵜殿長照の死後はドラマの通り、家康の義父である久松長家(俊勝)が入城してこの地を支配しました。
上ノ郷城 基本情報
- 築城年:不明
- 廃城年:不明
- 築城者:不明 鵜殿長照の祖父である長将の頃には鵜殿氏が居住していたと考えられている
- 種類:丘城
- 天守:なし
- 主なタイトル:-
- 主な遺構:曲輪、土塁、横堀(空堀)、切岸、井戸
- 文化財指定:蒲郡市指定史跡
- 所在地:愛知県蒲郡市神ノ郷町城山36他
- アクセス:JR東海道本線・蒲郡駅から徒歩45分。東名高速道路・音羽蒲郡ICから15分。どちらにしてもまずは上ノ郷城の案内版がある赤日子神社の駐車場をまずは目指してください。赤日子神社の西北にある小高い丘が上ノ郷城跡。
- 駐車場:あり 赤日子神社の駐車場と同じ。駐車場利用は神社優先で。
- トイレ:なし
- 売店・食事処など:なし
- 女子城メグラー 難易度:★★☆☆☆
蒲郡駅から徒歩45分、車でも駐車場までの道が細くて大きな車では道幅が狭くて大変。着いてしまえばさほど大きな城ではなく、整備されているので歩きやすいです。城としての見どころはあるのだけど、アクセスの悪さで「行きにくい=難易度が高い」で減点。とはいえ、周りとの地形の差もわかりやすく、道順の案内もあるのでまわりやすくて良い城です。
- 登城日:2023年3月25日
上ノ郷城 散策ログ
駐車場から行って帰って25分。入れるところが限られているので主郭までさっくり見て高低差を感じてきました。
上ノ郷城は駐車場があるけれど、道が狭い!大きな車で行く人は要注意。事前にGoogleマップのストリートビューでルートを確認しておいたほうがよいです。
行きは切り返しがきかないような狭い道を通っていきましたが、帰りに通った道は少し道幅が広かったです。こちらが推奨ルートのようでした。
散歩ログは「S」が駐車場の位置。案内版で道順を確認して行きましょう!
>> 上ノ郷城に行くならおすすめ!蒲郡市博物館