発掘調査の結果、72棟の建物が跡が出てきたということだけど、建物の復元や礎石を観られるのはほんの一部。今の鞠智城はぽつんぽつんとしか建物がないのだけど、この敷地内に72棟もの数の建物があったと言われると納得。これだけしか建物が無かったらそれはそれで不自然だよな。
米倉
米など食料を保管した倉庫。すぐ隣に礎石のみが並んでいる。このエリアからは礎石建物群が発掘されていて、周辺からは大量の炭化米が出てきたことから、1棟を米倉として復元しました。
鼓楼が掘立柱建物だったことに対し、この倉庫エリアは礎石建物。柱を支えるための石を置き、その上に柱を立てて建物を造っていました。
正倉院で歴史の資料集でよく出てきた高床式の校倉造(あぜくらづくり)で再現されています。校倉造の特徴である「ねずみ返し」がついていますね。
兵舎
八角形鼓楼跡から眺めたところ。写真の左奥に見える長細い建物が兵舎。
それにしても広い。中世城郭なら間に堀と土塁を作って曲輪が2つに分かれてるくらいの規模感。
とにかく広い。このエリアからは横長の建物跡が2つ検出されました。そのうちの1つを復元しています。
防人(さきもり)として兵役についていた人たちが寝泊まりしていた「かまぼこ型の兵舎」があったと考えられている。建物の規模が大きく、さらに高床式じゃなかったりすることを考えると、やっぱり兵舎なんだろうなぁ。兵士の数でいうと、50人くらいが生活していたと考えられるらしい。
確かに大きいけれど、2段ベッドでもない限り、50人はプライベートスペースが全くなく、長期間はしんどいよな。
現在の兵舎は鞠智城や古代山城の資料展示スペースになっている。
パネル展示のみなのだけど、詳しくかつ、わかりやすい。歴史公園鞠智城温故創生館が発行している「古代山城紹介パンフレット 発見☆古代山城」が置いてあり、子どもでもわかりやすい文章で写真も多く、一部お持ち帰りしてきました。
けっこう歩いてきたなぁ。
望楼があったとされる北の端の「涼みヶ御所」まではまだ半分くらい。
板倉
兵舎の奥にあるのが板倉。武器を保管した倉庫の復元建物です。
>> 宮野礎石と西側までとにかく歩いて行ってみる