『どうする家康』聖地巡礼㉑ 小谷城前編 黒金御門の虎口と本丸大堀切は必見!

小谷城の続きです。番所跡、御茶屋跡、御馬屋跡と登ってきていよいよ小谷城の中枢部へさしかかります。

桜馬場跡

首据石を通過すると左に郭への入口がある。その先は桜馬場跡です。小谷城では2011年の大河ドラマ『江』でロケ地になっていて、そのときの様子を説明する看板も立っています。

小谷城 桜馬場跡
小谷城 桜馬場跡

桜馬場は細長い郭で左右の2段で成り立っていて、西側の郭では建物の礎石が確認されているそうな。

小谷城 桜馬場 想定図
小谷城 桜馬場 想定図

桜馬場からの眺めもとてもよくて、大河ドラマ『江』で淺井長政とお市の方がここから琵琶湖を眺めるシーンが撮影されたというのも納得。

小谷城 桜馬場からの眺め
桜馬場 遠くに琵琶湖が見える・・・?

本当は琵琶湖が見えるはずなんです!が、ガスってよく見えない。2010年に行った時は黄砂がすごくて琵琶湖が真っ黄色だったし、琵琶湖『運』が無い
正面に見える山が織田信長の本陣があった虎御前山。それと対峙するように右側にある見切れている小山が、小谷城の支城である丁野山城中島砦があった山。2023年に虎御前山を抜けてそのまま中島砦と丁野山城に行ったのだけど、虎御前山を降りて中島砦の登り口まで徒歩20分という近さ!小谷城と虎御前山も近いけど、支城の丁野山城と中島砦にいた兵士達にとっては恐怖でしかない!

展望スポットにある解説版は、姉川の戦いと小谷城の攻防で知っておきたい城やスポットがわかりやすく解説されている。左側の写真が伊吹山方面、右側の写真が彦根・長浜方面となる。
右側の写真の「彦根・長浜方面」の写真が桜馬場展望スポットからの眺めなので、織田信長がいた虎御前山を目印に探してみてください。

黒金御門跡

桜馬場を後にして、首据石まで戻るとその先にあるのが黒金御門跡。いよいよ小谷城の中枢部です。

小谷城 黒金御門跡
小谷城 黒金御門跡

「黒金御門」というだけあって、鉄板を打ち付けた扉の門が立っていたと考えられている。よく見ると足下には約7段の石段があり、その左右に巨石が配置されていて、この上の郭が大広間本丸はその先にあるわけで、いかにも重要な門といった感じ。

この大広間へつながる黒金御門本丸の虎口だけじゃないかな。登城路の右側から回り込んで郭に入るのではなく、郭に対して正面から入るように門が造られている。ここまで侵入してくる敵を想定していないというか、潔いです。

黒金御門だけでなく、門から連なる石垣までもが派手に壊されている。これは羽柴秀吉によるもので、小谷城の開城後に淺井の領地を任された秀吉はしばらく小谷城にいたものの、利便性の悪さから今浜(現在の長浜城)に移り、その際に破却したからと言われる。
破却の跡も含めて貴重な遺構!これだけの攻めにくい城だもんなぁ。再利用されることを恐れてぶっ壊したというのも無理も無い。

 

大広間跡

そして黒門を入った先にあるのが大広間跡。別名「千畳敷」というだけあって広い!

小谷城 大広間跡
小谷城 大広間跡

大広間跡では淺井長政とお市の方の祝言が行われたとも、お市が三姉妹とともに暮らしていたとも言われている。
城内最大の大きさの細長い郭で、その大きさは長さ約85m、幅が約35m、面積3,000㎡! 奥が見通せない

『週刊日本の城』の小谷城編によると、大広間は

現在は崩れているが、南側全面には高さ約4mの石垣が積まれている。建物跡の他に北東隅には約3.3m×2.7m、深さ約0.9mの石組みの井戸跡とこれに接続する石組みの溝跡、北西隅には蔵跡が確認されている。

とのことで、桜馬場側には高さ約4mの石垣が組まれていたし、御殿の他に土蔵井戸もあったということならば防御の面もじゅうぶん機能的!
それにしても信長が安土城を築く前のこの時代に4mの石垣ってすごいな!

井戸は黒門から入ってきたすぐ左にあったようだ。そして気になるのが地面を歩いていると気が付く礎石らしい石たち
滋賀県長浜市教育委員会発行の史跡 小谷城跡 保存管理計画書」によると、

また、建物の礎石が 191 ㎝(6尺3寸)間隔に配置されており、北西限には東西8m南北6mにわたって敶石した場所がある。

とあり、礎石は残っているようだけど、これらの石たちは当時の礎石なのか?

なお、この大広間からは発掘調査で37,000点もの土器や陶磁器が出土しているそうです。
『戦国の山城を極める』の中井均先生の「小谷城」によると、

ここからは三万七千点におよぶ土器、陶磁器が出土した。このうち三万六千点が素焼きの皿、つまり”かわらけ”であった。この皿は式三献(しきさんこん)と呼ばれる武家儀礼で酒を飲む器であり、一度使うと洗わずに捨ててしまう消耗品であった。こうした発掘の成果から、小谷城では山上にも居住空間があり、そこでは恒常的に人が住んでいたことが判明した。

『戦国の山城を極める』P.110より

ということで、大広間では酒席が設けられ、36,000点という多さから宴会も行われていたんだろうなぁと想像してみたり。

小谷城は、炎上して落城していた!?

そしてここで、小谷城がドラマで取り上げられる時のよくある『小谷城 炎上して落城』の描写についての謎も明らかになる。
小谷城では先に記載した大広間以外にも本丸、中丸、京極丸などで発掘調査が実施されているのだけど、おなじく『戦国の山城を極める』によると、

さらに注目されるのはこの発掘調査ではまったく焼けた痕跡が認められなかったことである。つまり信長の攻撃に小谷城は炎上しなかったのである。

『戦国の山城を極める』P.110より

大広間や本丸で炎上した形跡がないのであれば、そりゃー炎上してないでしょうな。

大河ドラマ「江」では小谷城が炎上し、それをお市の方と浅井三姉妹が眺めていたシーンがあったけれど、時代考証の小和田哲男先生が「小谷城は炎上していない」と何度も説明したのに「炎上しないと落城したことが伝わらない。ちょっとだけ火をつけていいですか?」と制作側から言われて「ちょっとだけなら」としぶしぶ同意したら、放送では大炎上!時代考証は何をしているんだ!と城の専門家からアマチュア愛好家もこぞって激オコしたというエピソードはあまりにも有名。
今やったらそれこそSNSで大炎上だよね。ちなみに『どうする家康』では炎上の描写は無しに、城内の建物に侵入してきた秀吉から娘たちをかばっていたお市が裏拳気味に秀吉を殴り、秀吉は茶々を抱き上げて連れていく、というシーンがありました。
うん、確かに燃え上がってなかった。

小谷城 本丸の石垣
小谷城 大広間から見える本丸の石垣

そして大広間の奥に突き当たると一段上の郭である本丸の石垣がびしーっと連なる。これがまた壮観なんだけど、やっぱり秋冬に来るべきだな。草木が多すぎる。

 

本丸

大広間から一段上がったところにある本丸へ。虎口が壊されまくっているので足場もちょっと悪く、正直、むりやり登っている感はある。

小谷城 本丸へ
小谷城 本丸へ

虎口左側の石垣の隅石、かっこいいなぁ。

大広間の北東に設けられた本丸。さっとまわったのでよくわからなかったのだけど、東西約25m、南北約40mで上下二段になっている。本丸の下の大広間がかなり広かったのに対し、本丸はコンパクトで、山城の本丸のサイズ感です。

小谷城 本丸
小谷城 本丸

本丸の別名は「鐘丸(かねのまる)」。案内版によると、江戸時代中期の小谷城の古絵図には「天守共 鐘丸共」と書かれていていて、なんらかしらの建物があったと考えられている。安土城の天守ほどではないものの、それに相当する建物があったのかもしれない。

本丸の先に進もうとすると、ここだけ左まわりに入り込むことになる。これは、本丸の東側の斜面には腰郭を遮断する大土塁が築かれているから。現代の推奨ルートではないので行きませんでした。改めて調べると、「小谷城跡 保存管理計画書」はデジタルデータでなくて縄張図が見づらく、大土塁がどんな形状だったのかはよくわからず。残念。
しかし灯台元暗し。清水谷の案内版に概念図があったではないか!

小谷城 本丸の大土塁
小谷城 本丸の大土塁

本丸の東側(向かって右)に大土塁が突き出して腰曲輪を遮断してる! どうしてここだけ!?
この尾根の東側は急斜面で郭を築いておらず、本丸の東側の唯一、赤尾屋敷のがある段郭があり、そこから敵が上がってくることを考慮して、土塁を築いて道幅を狭くしたのだろうか?謎だ。
そして本丸の反対側の西側にも土塁が築かれていたが、虎口状になっていて西側が正規ルートのようだ。

現代人の我々も大広間をいったん降りて本丸の西側から先へ。大堀切を目指します。

小谷城 本丸下の石垣
本丸下の石垣を左に回り込んで大堀切へ

 

本丸裏 大堀切

小谷城の東側での見どころのひとつ、大堀切へ。
下の写真は本丸の上から大堀切を眺めたところです。

小谷城 本丸北の大堀切
小谷城 本丸北の大堀切

写真ではわかりづらいけど、かなりの大きさ!東側の城域を2つに見事にわけています!

小谷城 本丸裏の大堀切
小谷城 本丸裏の大堀切

この大堀切の規模は深さ10m、幅15m、長さ40mという巨大さ!
このときはまだ広角レンズを買ってなかったので全体像がつかみづらいけれど、幅15mは広いよ!
戦略上はここに大堀切を造りたいのはわかるのだけど、この上の京極丸付近に控えていた予備兵たちを本丸に送ろうとするにはスムーズにはいかないかもしれないですね。

清水谷から水の手経由で「京極つぶら(京極丸)」を落とし、南に下ってきた秀吉軍は、本丸にいた浅井長政軍とこの大堀切を挟んで対峙しましたが、秀吉はこの大堀切に手を焼いたそうです。浅井長政が(おそらく黒門経由で)討って出た隙に秀吉軍が本丸に入り、浅井長政は本丸まで戻れずに赤尾屋敷で自刃したということらしい。

小谷城の番所から本丸北の大堀切の散策はこれで終わり。さらに登って京極氏ノや型があったという京極丸、山王丸を目指します。

>>京極丸、山王丸編に続く


参考資料:
・長浜観光協会 小谷城を歩こう
・週刊日本の城
『戦国の山城を極める』 加藤理文・中井均 (著)
滋賀県長浜市教育委員会 史跡 小谷城跡 保存管理計画書


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