2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
『どうする家康』の聖地“潤”礼の旅。
徳川家康が小谷城の攻防に参戦していたわけではないけれど、ドラマの本編や「どうする家康ツアーズ(紀行)でも紹介されていたので取り上げます。
前回は小谷城の番所跡から本丸とその裏の大堀切まで取り上げました。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画! 『どうする家康』の聖地"潤"礼の旅。今回取り上げるのは、13話の「どうする家康ツアーズ(紀行)」で取り上げられ、19話の「お手付きしてどうする!」でお市様が裏拳ぎみに秀吉にビンタを[…]
今回は大堀切の先を目指します。
「帰りのバスのお迎え」という制約がある中で、どこまで行けるか!?
御局屋敷跡
大堀切の先の郭に行く前に、とある一郭を紹介。
大堀切の西側(清水谷側)の下にある御局屋敷跡。御馬屋跡から清水谷側からずーっと続いている帯曲輪で、本丸を西側から守っている。さすがにここから見てもよくわからないけど、御馬屋跡からこの御局屋敷跡ぐらいまでに竪堀が集中しているようだ。
御局屋敷の曲輪の石垣もこれまた見ごたえがあるようだけど、時間の制約もあり、50m先という近さだったけどそのまま中丸を目指します。
中丸
中丸は、本丸の北側の大堀切からさらに北にある郭で、奥が高くて手前が低い三段の区画から成り立っている。
中丸の最下層の曲輪は大広間ほどではないが広い。中丸の案内板で解説されていた図によると、中丸だけの特徴として中央に石段で登って入る虎口があったようだ。
石垣は設けられていても土塁が無いというのも一つの特徴ですね。石垣を築いたから(登ってこられないという想定で)不要判断をしたのであろうか?
中丸の虎口は周りに石がゴロゴロ。門の名残であろう大きな石が左側に縦に立っている。
それにしても崩れたというには不自然な石の散らばり方。破壊されたのだろう。
下記の2枚は同じ写真で中丸の中段と最上段の写真。
左:中央に少し高まりがあるのが中段だと思われる。中丸の石碑と中丸の曲輪の解説図がある。
右:中丸の最上段への虎口をアップにした写真
それにしても中丸の最下層(三段目)の区画は広いなぁ。最上段がとてもとても先に見える。
中丸の最上段中央にある虎口を入ると右奥に刀洗池があり、現在も小さな井戸が埋まった感じで残っている。(写真を撮り忘れた!)
小谷城跡 保存管理計画書によると、
城中の用水池(水の手)とみられ、岩盤を湯舟型に掘りその側面に高さ約50 ㎝の石積を行って浸透水を受けたものである。
史跡 小谷城跡 保存管理計画書 P.31「刀洗池」より
「刀を洗う」だけの用途とは思えないくらいの丁寧な作りなのは、高所にある郭の最重要課題である水の確保が目的であったというならば、納得です。
中丸の先、京極丸へはこの刀洗池をまわって入り込みます。
京極丸
京極丸の手前は細かく段々となっている。
京極丸は浅井氏が守護の京極高清父子を迎える居城として用意した郭と伝わっているが、実際にここに京極氏が居住していたかは不明。
京極氏のため・・・と伝えられているだけあって、大広間に次ぐ広大な敷地でいくつもの段に分かれています。
京極丸の中心部に入ると看板が目に入るが、その奥の高まりは郭の東側にある土塁で、高さ約3m。
さすがの防御設備具合で、中心部は西側に横矢がかかるようになっていて、入口下には4段の郭を配置。清水谷側斜面にも広い郭を設けているが、この郭に入るには水の手から上がってきてすぐの枡形虎口を抜けなくてはならない。枡形虎口の下には三段の小規模な防御用の郭が築かれていた。なんという厳重な守り!
うわぁ!普通に京極丸の中心部にあがっただけで満足しちゃったよー! もったいないことした。
清水谷側の郭にも降りて、枡形虎口と水の手に降りる通路を確認したかった!
ん?京極丸の水の手???
そう。ここがポイント。
秀吉が攻め入った「京極つぶら」とはどこ?
豊臣秀吉たちが小谷城を落城させたとき、番所側から登るのではなく、清水谷から「京極つぶら」へ登り、浅井長政の父親である浅井久政が籠もっていた小丸と浅井長政がいた本丸を分断させたとされている。京極つぶらは「京極丸」であったと考えられている。郭の名称は江戸時代に作成された絵図にある名称で、戦国時代の呼び方は明確にわかる資料がない。それでも「京極つぶら=京極丸」であったと字面からもそうだと思いたい!
そしてふつふつと湧き上がる思い。水の手から上がってきたってここか!
京極丸の案内版をとった位置の標高が350m。実際に清水谷から水の手経由で京極丸まで登った現代の城好きの感想を読むと、捕まる処も無い上に急な勾配でかなり過酷そう。
秀吉は戦装束だから登れないから麓において、身一つで登って攻めろと指示したらしい。
秀吉、鬼か!!!
でもそのくらいやらないと落とせない。実際、浅井側は水の手から登ってくるとは想定していなかっただろうし。
ということで、まんまとその京極丸の虎口や水の手やらは見落としましたが、おそらく京極丸周辺のどこかにあったであろう石垣。(5年前でどこだったか思い出せない。)
平たい石を積み上げていて、他の場所の石垣と違うので当時のものなのか後世の土留めなのかよくわからない。
誰かおしえてください。
>>小丸跡から山王丸編へ続く
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