『どうする家康』聖地巡礼㉑ 小谷城前編 黒金御門の虎口と本丸大堀切は必見!

2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
『どうする家康』の聖地“潤”の旅。今回取り上げるのは、13話の「どうする家康ツアーズ(紀行)」で取り上げられ、19話の「お手付きしてどうする!」でお市様が裏拳ぎみに秀吉にビンタを決めた小谷城です。
家康は姉川の戦いには出陣したけれど、織田信長が小谷城を落とした時には武田の遠江侵攻の攻防があり直接は参戦していませんが、紀行で紹介されたのでレポします。
小谷城は2010年、2018年に行ったのだけど、2010年は日没直前だったので掲載できる写真はありません。当時の探索記はこちらから。(でも写真が暗い!)

小谷城とは

小谷城は小谷山に築かれた近江長浜の名城で浅井氏の居城だった城。織田信長の妹で絶世の美女だったという「お市の方」が浅井長政に嫁いでいて、浅井三姉妹のエピソードでも有名。

ざっくり小谷城の歴史を解説するとこうなる。

  1. 北近江の守護だった京極氏が戦国時代に家内の騒動で弱体化。
  2. それを収集させた京極高清に対し国人一揆が発生。
  3. 京極高清を尾張に追い払った国人達のリーダーが淺井亮政(すけまさ 淺井長政の祖父)で、小谷城を築いた

かつての主人を追い払って巨大な城を築き、実効支配の宣言となった城です。

馬蹄型の山の尾根に郭を築き、馬蹄型の内側の「清水谷」に浅井氏や家臣達の居館を置いた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いを経て天正元年(1573年)の3年にわたって小谷城は攻められて開城。浅井長政は小谷城内の赤尾屋敷で自害し、嫡男とされている9歳の万福丸は殺害された。お市と茶々、初、江の3人の娘は救出されて織田信長の元に戻ることになりました。

小谷城の特色と言えば、大広間の石垣や本丸にある大堀切が目を引くが、郭や土塁、石垣、堀が良好に残っていること。それだけでなく、①番所跡から本丸の後ろの大堀切までが一つのブロック、②大堀切からさらに北の京極丸を中心とした山王丸のブロック、③小谷山の最高所にある込み入った縄張で小谷城はここから始まったのであろう大嶽城、④西側の福寿丸と山崎丸のブロックで麓の居館跡の清水谷を囲んでいてとにかく巨大。馬蹄型をすべてまわると1日はかかる名城です。

小谷城 立地について

画像の北にあるのが小谷城で、その支城だったのが向かいにある丁野山城中島砦
小谷城に対峙して織田信長が陣取ったのが北国脇往還を挟んだ先の虎御前山城。虎御前山城は小谷城と比べると規模の大きな山ではなく、よほど落城させる自信がなければこんなところに陣を置くのは危険だが、街道をおさえつつ、小谷城から丸見えのこんなところに陣取るなんて、信長がいかに自信があったかがわかる。信長やるなぁ。

小谷城 Google Mapより
小谷城をとりまく城や砦たち

画像上にピンスポ立てていますが、これは小谷城の戦いの前哨戦となった姉川の戦い関係のスポット。姉川の戦いについてはこちらをどうぞ。

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姉川の戦い 旧野村橋

 

小谷城 縄張図

小谷山に築かれた小谷城。一番高い大嶽城(おおづくじょう)が標高495m。初期の城は現在の本丸の尾根に築かれた郭のほうではなく、この大嶽城だったと考えられている。

戦国ガイドステーションからバスで登ると番所の手前に到着し、その先に郭が連なる。難攻不落だった小谷城を落とすきっかけになったのは秀吉が清水谷から登って落とした『京極つぶら』と信長公記に記述があり、「京極丸」と考えられている。
浅井長政とお市の方の婚礼の式が行われたという大広間は、こんな急峻な山によくこれだけの郭を作ったな!という広さ。そこから眺める本丸の石垣がいい!
なお、戦国ガイドステーションからのバスで登ると地元のガイドさんから説明を受けることができますが、本丸までしか行かないのでご注意を。

小谷城 案内図
「小谷城を歩く」パンフレットより 小谷城 案内図

小谷城へ

小谷城へ登る前に訪れたのが小谷城戦国歴史資料館。小谷城に関する展示やパンフなどがあって登城前の予習はここですべし。小谷城の御城印もここで売っています。

小谷城戦国歴史館

きれいなトイレもあるので登城の前に立ち寄ることをおすすめします。

暑かったり寒かったり天気によってどこまで登って行くかを自分の体力と相談してください。
特に戦国ガイドステーション発のバスで行く時には、帰りのお迎えの時間も考慮しないとね。

 

戦国ガイドステーションから小谷城へ

2018年7月に行った時には車で中腹まで行けない日だったので、戦国ガイドステーションへ向かう。大河ドラマ『江』放送前に行った時は車で番所跡まで行けたのだけど、現在は観光ハイシーズンの土日祝日は戦国ガイドステーションからのシャトルバス(500円)で行くことになる。シャトルバスで行くと地元のガイドさんが案内もしてくれます!

事前にガイドさんに確認したら、城内の散策は本丸までしか行かないとのこと。本丸までは行ったことがあり、その先の大堀切や大石垣を見たかったので、帰りのバスはガイドさんに話をして、一便遅らせて帰ることにしました。

長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト
バスの運航日程は年ごとに異なるので「長浜・米原観光情報サイト」をチェックすべし!
定員は25名なので、帰りのバスを一本遅らせての本丸裏の大堀切以降の散策は、帰りのバスで定員オーバーになる可能性もある。ハイシーズンは避けたほうがよいかもしれません。

 

番所跡

戦国ガイドステーションのバスで曲がりくねった道を上り、番所跡の手前に到着。

小谷城 番所跡
小谷城 番所跡

番所は登城者の検問所があったところ。ここから先が小谷城の主要部です。
清水谷から登ってくるかつての追手道とはこの番所で合流するのだけど、ふもとから追手道を登ってくると番所の手前に金吾丸があります。金吾丸は朝倉家の家臣であった朝倉宗滴の諡号「金吾」にちなんで金吾丸と呼ばれている。いつも時間が惜しくて金吾丸までは行けていないけれど、数段の郭と土塁が築かれているというので一度は行ってみたい。

注目! 虎御前山 展望所

番所から登った先に視界が開けた一角が。この「虎御前山城 展望所」からの眺めがいい!
小谷城攻めの時に織田信長が本陣を置いた虎御前山が目の前に見え、馬蹄型の小谷城の登ってきた反対側にある山崎丸があった小谷城のもうひとつの尾根も見えます。
この虎御前山城展望所の標高は約285m。本丸が350m、本丸の先にある山王丸が約390mなのでまだ中盤といったところ。それでもこの景色!

それにしても虎御前山城、近いな!
山の規模からすると小谷城に比べれば低いし小さいけれど、あの山の規模とこの近さに本陣を置く織田信長の大胆不敵さよ。いと、怖ろし。

小谷城 御茶屋へ
まだまだ中盤 登っていきます

 

御茶屋跡

番所跡から登って5分くらいのところにあるのが御茶屋跡。ここから先、は段々に郭が築かれていきます。

御茶屋の郭はやや広め。西側には庭があったと想定されているそうです。

小谷城 御茶屋
小谷城 御茶屋

御茶屋には「L字型」の土塁で仕切られていたというのだけど、今となってはよくわからず。奥の高くなっているのが御茶屋の上にある御馬屋の郭です。

御茶屋の郭の右に道が続いていて緩い登りとなっている。小谷城は馬蹄状の尾根の内側にある清水谷に館跡と大手があるので、東側の尾根には内側に竪堀何本も築いて防備を固めている。清水谷から上がってきた時のために東側の尾根に竪堀を何本も築くなど防備を固めていて、清水谷から上がってくることを相当警戒していたのではないだおうか。大広間より下にある郭に入る時に、馬蹄の内側ではなく外側(東側)から回り込む作りの郭が多いのは、清水谷側からの侵入避けているからかもしれない。

 

御馬屋

御茶屋のすぐ上の郭が御馬屋で、郭に入る手前には馬洗池があります。

「御馬屋」と呼ばれているものの、馬小屋があったかどうかは不明。郭は東、南、西の三方を高い土塁に囲まれていました。

小谷城 馬洗池
小谷城 馬洗池

「馬洗池」は石積みで囲まれたしっかりとした池。馬を洗うためにしては頑丈に作られていて中仕切りで2つに分かれている。「貯水池」兼この上の郭である桜馬場を囲む石垣への取り付きを防ぐための水堀の役割だったとも考えられているのだけど、だとしたらそうとう機能的だよね。高取城ニの門の手前にある水堀姫路城三国堀と同じような役割だったのかもしれない。
御馬場の郭には井戸もあったということで、小谷城ではこの周辺が水を貯めておく重要スポットだったのでしょう。

首据石

さらに登ると道の右側に見えてくるのが首据石黒金門の前に鎮座している立派な石です。
2010年に長浜が地元の友達と行ったのだけど、案内してくれたお父さんに聞いたところでは「首切石」とも呼んでいるそうです。

小谷城 首据石
小谷城 首据石

天文2年(1533年)1月に京極氏に使えていた淺井長政の2代前の亮政が六角氏との合戦の際に家臣の今井秀信が的方に内通していたことを知り、神照寺で殺害してその首をこの石の上にさらしたと伝えられている。
小谷城の本丸へはここを通らないと行けないわけで、首をここにさらすというのは京都でいうと「三条河原に首をさらす」くらいの感覚ではないかと。「見せしめ」感がすごい・・・。

 

赤尾屋敷跡への案内

首据石を通過するとすぐに見えてくるのが赤尾屋敷への分岐点。

小谷城 赤尾屋敷への案内
小谷城 赤尾屋敷への案内

写真の道をまっすぐ進むと城内で最も広い大広間への入口の黒金門。その手前の道を右に入ると淺井氏の重臣だった赤尾美作守の屋敷跡と伝えられている赤尾屋敷跡がある。
2018年に行った時は時間がなくて行けず、2010年の時は日没で真っ暗だったので掲載できる写真はないのだけど、現在は石碑があるのみの郭。

淺井長政はこの赤尾屋敷跡で自刃したと伝わっている。なんで本丸でないのだろう?と思ったら、淺井長政は最後は黒金御門から討って出て、信長軍に攻められて「本丸に戻れなかった」というのが真相らしい。
天正元年(1573年)9月1日に淺井長政自刃。享年29歳。今の感覚でいうと若すぎるよね

 

>>桜馬場からの先、本丸編へ続く

小谷城 黒金御門跡
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