岸和田城 奇想天外な庭園が意外とマッチしている城

2021年10月。大阪に舞台を見に行ったついでに城めぐり。続日本100名城に選出された岸和田城に行ってきました。
水堀と本丸の石垣、そして百間堀が美しく、散策すると曲輪の名残がよくわかる城でした。

岸和田城とは

別名「千亀利城(ちきり城)」。本丸と二の丸の配置が機織り機の「縢(ちきり)」に似ているというが、調べていてもどこがどう似ているのかよくわからん。

案内板によると、岸和田という地名は楠木正成の一族の和田氏が、当時「岸」と呼ばれていた地に城を築いたことから「岸の和田氏」が転じて「岸和田」になったと書かれていましたが、まだ「城」と言える規模の建造物ではなかったようだ。
その後は信濃氏、細川氏、三好氏、松浦氏、中村氏、小出氏、松平氏が入り、寛永17年(1640年)に岡部宣勝(おかべのぶかつ)が入城。岡部氏は13代この地を納め、明治を迎えました。

 

岸和田城 縄張図

岸和田城 案内板絵図
岸和田城絵図

岸和田城の案内看板より。方角でいうと二の丸が北側になるので、上下が逆ですね。
本丸へは二の丸からしか行けないようになっていて、二の丸エリア、三ノ丸エリアと輪郭式に築かれた平城
「二の丸」と書かれている曲輪のみ現在は「二の丸」という呼び方になっていて、それ以外は「ニの曲輪」と呼ばれているようだ。
二の丸の外側の百間堀と本丸を囲んだ水堀のみ残っているがあとは埋め立てられている。それでも本丸の裏の家老中屋敷跡とか、二の丸から東につながった現在の岸和田市役所がある区画の道路は曲輪の名残があり、Googleマップで見ると、これは堀を埋め立てたな。とわかるのでGoogleマップで照らし合わせてみると面白いです。

 

岸和田城は以下の流れで城域を拡張していったようです。(参考:「週刊日本の城」)

岸和田城の遷移

  • 文禄4年(1595年)から2年をかけて3万石に加増された小出秀政が大規模改修を実施。近世城郭のベースが完成。
  • 元和5年(1619年) 松平康重が5万石で入る。伏見城から櫓や門を移築。
  • 寛永17年(1640年) 岡部宣勝が入り、海岸に面した外曲輪を整備、南北の外堀を結ぶ浜手の石垣を築く。現在の岸和田城の形になる。

現在は石垣、曲輪、内堀の水堀、百間堀が残っているが、それ以外でも曲輪の形と道路状況等によって曲輪跡を想像することができます。

 

岸和田城へ

南海本線の岸和田駅で下車し、岸和田城へ向かう。このコースだと東大手門付近(ややずれているけど方向はだいたい合っている)から入り、東取切(ひがしとりきりを経由して右に(かつては水堀越しに)二の曲輪、左にまた別の曲輪となる。
水堀を挟んだ二の曲輪の向かいの曲輪には岸城神社があります。「きしじょう神社」と読むのかと思ったら「きしき神社」と読むのね。

※取切:遮断したり仕切ったりすること

岸城神社

小出秀政が城主だった時代に岸和田城築造以前に当地で祀られていた天照大神と八幡神と、牛頭天王が合わさって祀られました。

岸城神社
岸城神社

岸和田城の鎮守神であった岸城神社は、岸和田城の別名「千亀利城(ちぎり城)」から「千亀利のお宮」と親しまれました。「千亀利=ちぎり=契り」を想起させることから縁結びの神様として信仰されているそうなので、ついでに立ち寄ってみるのもおすすめです。

 


岸城神社を通過すると二の曲輪に入ります。

ニの曲輪

ニの曲輪は、岸和田高校の前身である旧制岸和田中学校時代の建物を解体してグラウンドにする際の平成8年(1996年)に発掘調査が行われています。
大阪府のホームページによると、江戸時代の石垣・土塀・櫓跡が出土したそうです。

平成8年の調査では、江戸時代の石垣・土塀・堀・櫓跡などが検出されました。調査地が江戸時代の岸和田城絵図によると、筆頭家老(ひっとうかろう)中家屋敷地(なかけやしきち)の門付近に当たるため、検出した石垣・土塀は、家老屋敷の門およびそれに接続する築地塀の跡と想定されました。

大阪府ホームページ 岸和田高等学校(岸和田城跡)より

現在は塀に囲まれていて中を伺うことはできないけれど、この広い区画に屋敷があったのだなぁと規模感を妄想して味わってくだされ。

ちなみに、二の曲輪から少し突き出た岸和田市役所がある四角いエリアは、かつては3方を水堀で囲まれていたというのも道路を水堀に置き換えれば妄想できますよ。

 

グラウンドに沿ってしばらく歩くと、ニの曲輪の先にあるのが二の丸。二ノ丸に入るにはやや斜めにかかっている極楽橋を渡る必要があって、極楽橋の先には二の丸東櫓門高麗門形式であったようです。

 

二の曲輪から眺める本丸石垣と天守閣

二の曲輪から眺める岸和田城の水堀と天守閣がとってもフォトジェニック!
広い内堀の先が本丸です。

岸和田城
岸和田城本丸 大天守と小天守

本丸にはところどころ犬走(いぬばしり)がめぐらせてあり、石垣を補強している。
手前(本丸石垣の東側)の石垣の隅には、かつては東二層隅櫓がありました。

岸和田城 天守閣
彦根城の天守を模した岸和田城の天守閣

現在の岸和田城の建造物の多くは模擬復元で本来のものとは異なるのだけど、現在の天守閣は彦根城の天守を模している復興天守ようだ。唐破風華頭窓などのデザインが似ていますね。

そして積みなおした石垣の石がモザイクのようだ。岸和田城の石垣は野面積みのように見えるけど、砂岩の風化が激しいためで、隅石の算木積みは粗いけど、技法自体は打込接ぎといえる。この砂岩の風化については、歴代の城主が泣かされてきたそうです。

岸和田城 本丸と二の丸
岸和田城 本丸と二の丸

復元図を見ると当時も土橋でつながっていた本丸と二の丸。
本丸と二の丸の石垣の高さの違いが萌える。

 

二ノ丸

極楽橋から二の丸に入ったつもりで、二の丸へ。

二ノ丸に入ってすぐには櫓???「二ノ丸多聞」と名付けられたトイレでした!

二の丸には二の丸御殿があり、北の隅には伏見櫓があったという。
伏見城から移築された建物は岸和田城のほかに江戸城、大阪城、膳所城、尼崎城、福山城という重要拠点に移築されていたことからも岸和田城も幕府にとって重要拠点であったと推測できる。

現在は公園として整備されているので、天気が良い日はコンビニでおにぎり買ってここで食べるのもおすすめ。すぐ近くにトイレもあるしね!

(二の丸にあったイタリアンレストラン「Club Contrada」は2022年の2月に移転したそうです。


 

百間堀へ

このまま二の丸を通過して土橋から本丸に入るのもよいけど、極楽橋跡まで戻り、岸和田市役所の周りを散策することに。市役所があったエリアの3方は水堀で囲まれていたのだけど、現在は埋め立てられて道路になっているのだけど、曲輪の名残と規模感が歩いてみるとよくわかる。

市役所に向かって歩いていると怪しい一画が!

岸和田城 おそらく百間堀
百間堀の名残 堀を埋め立てているのであろう

一段下がっている一画が公園になっている。おそらくここもかつては堀で、百閒堀とつながっていたんじゃないかと思う。

 

岸和田城 二ノ丸の石垣
二の丸石垣の北の隅 伏見櫓があった

百間堀というだけあって、広いし長い堀だなぁ。
写真の手前(二ノ丸の北の隅)には伏見櫓がありました。左奥に見える建物は二の丸にあるトイレです。

岸和田城 二の丸の石垣
折れもまた美しい

 

岸和田城 二の丸の石垣
二の丸隅櫓があった

百間堀を挟んで二の丸の石垣を眺める。櫓のようになっているのは「市民道場心技館」。この位置には二の丸隅櫓が建っていました。

 

さらに歩くと岸和田市営駐車場があったのだけど、左奥に櫓台のようなものがある。

岸和田市営駐車場
岸和田市営駐車場 石垣との高低差がたまらん!

櫓台のような場所は「展望ポケットパーク」と名付けられていて、本来はもっと石垣が駐車場側にせり出していたと思われる。駐車場を作るために石垣を削っちゃったんじゃないかなぁ。少なくとも復元図を見ると石垣はもう少し長い。
と思ったら、百間堀は国道を作る際に一部埋め立てられたそうでやはり改変が入っているようだ。

そしてこの展望台から眺める百間堀がよかった!

展望ポケットパークから周囲を眺めて気づいたけど、岸和田城のまわりは背の高い建物が無いのですね。見晴らしがとてもよい!

岸和田城 百間堀
百間堀越しに本丸と天守閣が見える

 

百間堀だけで何枚でも写真が撮れてしまうけど、本丸へ進みます。

>> 本丸と天守閣、幾何学的な庭園へ

岸和田城
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