2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画!
桶狭間の合戦にまつわる城と砦をまわったのですが、松平元康(徳川家康)が今川義元から命じられて、丸根砦から兵糧を運び入れた大高城です。
大高城とは
桶狭間の戦いについてはこちらからどうぞ。
2023年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画 第一話で取り上げられるであろう桶狭間の戦いが繰り広げられた桶狭間古戦場と周辺の城と砦を一足お先にめぐってきました。 地図上のマッピングではなく、自分の足で歩いてみると立地や地形、距[…]
若き徳川家康が松平元康時代に今川義元から孤立した大高城に兵糧入れを命じられる。
大河ドラマ『どうする家康』の宣伝で徳川家康を演じる松本潤殿が「お米をいれるだけぢゃ!」と、はりきって向かったのが大高城です。
大高城は築城年代ははっきりしていないのだけど、永正年間(1504~1520年)に花井備中守が築城したと考えられている。
歴史の舞台となる桶狭間の戦いは、織田信秀の死去後、息子の織田信長から離反した鳴海城主の山口氏の調略で大高城は沓掛城とともに今川義元の手に落ちたことが発端となった戦い。当時、鳴海城と大高城は伊勢湾に面していた交通の要所で、今川義元は鳴海城と大高城を落とすことによって織田信長の領地を分断するだけでなく、経済封鎖をもくろんだわけです。
対する織田信長は、桶狭間の合戦の前年の永禄2年(1559年)に大高城の東から北にかけて2つの付け城(鷲津砦、丸根砦)を築き、鳴海城の周りには丹下砦、善照寺砦、中島砦を築きました。その後、大高城のまわりはさらに東から南にかけて氷上山砦、向山砦、正光寺砦を築いたもので、大高城は周囲を信長の付け城で囲まれた状態の大ピンチに。
そこで今川義元が松平元康(のちの徳川家康)に大高城への兵糧入れを命じ、元康が丸根砦を落としたのちに大高城へ兵糧入れを命じられます。
大河ドラマ『どうする家康』で松潤演じる殿が「お米を運ぶだけぢゃ!」と意気揚々と言っているけれど、こんなところに飛び込みたくない
永禄3年(1560年)の桶狭間戦いのときは松平元康が守っていましたが、今川義元の死後、速攻で三河に帰ったためそののちは廃城となりました。
今回、桶狭間古戦場とそれにまつわる城と付け城をまわるにあたり、大高城から北上して鳴海城周辺の城をめぐろうと考えていたんだけど、大高地域観光推進協議会「大高を巡る」によると、丸根砦から大高城へ兵糧を入れた時の道が残っているとあり、ルートを変更して桶狭間古戦場伝説地から鳴海城へ行き、南下して大高城を目指すことにしました。
立地について
大高城は東西約600m、南北32mのなかなかの大きさな城。四方を二重の堀で囲まれていました。
伊勢湾をのぞむ標高20m弱の小山に築かれ、織田から奪い取った今川軍が入りました。それに対抗するために織田信長によって北東には鷲津砦、東には丸根砦が築かれました。さらにこれでもかと真東には正光寺砦、南西に氷川山砦、そして大高城と地続きか!?と思われるほど近い南側に向山砦も作られてしまう。となると大高城の西が空いているように思われるが、当時は大高城の西側にまで伊勢湾が入り込んでいたので、陸続きの部分はすべて織田方の付け城に囲まれていたと言える。
大高城は比高10mぐらいだけれど、平野にぽつんとあり、意外と登らされます。
2つの入口があって、
- 北側の正面入口
城址碑や案内板があり、ここから一直線に一気に登るのがおすすめ。近くには常滑街道に面して「辻の秋葉社」があり、当時の鉤曲がりの街道の名残があります。 - 南側 「兵糧入れの道」経由で三の丸からの入口
ちょっと見つけづらいのと、兵糧入れの道から三の丸の入口を目指すといったん大高城を背にし、大高小学校を目指して急坂を登り、大高小学校を過ぎたあたりで北に降りてくることになる。この急な上り坂がやっかいで、体力を削られます。
「兵糧入れの道」にこだわらなければ、北側の入口から入ることをおすすめします。大高駅からも北側の入口が近いし、城めぐりした後半戦でこの急坂はきついっす。
大高城 縄張図
縄張図はありません
大高城へ
大高城の前に訪れていた丸根砦から歩いた道中に撮った1枚。菊井橋周辺から眺めた丸根砦です。丸根砦は標高約30mだけどかなり高台に見える。丸根砦から大高城までは歩いて約40分くらい。直線ではなく、かなり迂回して行く道なので直線距離だと・・・想像以上に近いな。怖っ!
松平元康 兵糧入れの道
菊井橋を通って津島社まで来たら手前を右折する。ここからが松平元康、大高城への「兵糧入れの道」です。
昔の「道」の名残のような細くてこまかく曲がりくねった道が続く。
あぁ。まさに松潤が兵糧入れで通った道なのねぇ~💜、と、感慨深い。
※注 松潤は通ってません。しばらくワタシの妄想にお付き合いください。
このような細い道を松潤殿はどのように運び込んだのであろうか。丸根砦と鷲津砦は今川に抑えられていたので北東側は憂いはないけれど、大高城の大高川を挟んだ東側には正光寺砦があって丸根砦に対してにらみを利かせている。
松潤殿、「お米を運ぶだけぢゃ!」ってそんな簡単じゃないよ~!
ということを考えながらひたすら歩く。
兵糧入れの道は、大高城の近くにある海岸寺の脇を通り過ぎるまでとされている。さて、ここからどうやって入っていったんでしょうね。現在は住宅地となっていて、通り抜けができない道などがあるようなので、大高散策マップに沿って大高城を背にしていったん急坂を登り、大高小学校の前を通って三の丸を目指しました。
ちなみに「海岸寺」の名前は、当時は大高城の周辺は海で伊勢湾が迫っていたからなのでしょうね。今はすっかり陸地なので「海岸寺」という名称には違和感を感じる。調べて見たらなんと、天正2年(1574年)に織田信長の命により建てられたそうです。これはこれで参拝してみたかった。
写真左:兵糧入れの道はここで終了。まっすぐ進めば大高城に距離的には地階けれど、通り抜けできないようだ。
左折して急坂を登り、大高小学校を目指す。
写真右:大高小学校を過ぎたあたりで右折。「大高城公園」の入口を示す案内板があるのでわかるけど、不安になるほど細いし「城の門?」らしきものが閉まっているのでさらに不安。
大高城 三の丸へ
遠目で見て「閉まっている門」に見えたけど、ここが大高城公園の入口というわけではないのでご安心を。全く別の施設のようだ。
「門の脇の細い道」を歩くのが正解。
大高城の南側は宅地化が進んでいるため何がどうという判断は難しいところだけど、おそらくこれ、堀なんだろうなぁ。土橋らしき道を通っていくと、同じ位置から左右を撮影しているんだけど違いがある。
左写真:土橋状の道を通って三の丸への堀の左側(西側)。この堀をそのまま突き進んでいくと屋敷跡に出るようだ。
右写真:土橋状の道の右側(東側)。三の丸は右側が手前にせり出していて、この高まりは三の丸の切岸の名残なんだろう。
三の丸は十分に駐屯兵を置けるほど広い。西側は藪藪していて判別つかなかったけど、屋敷跡と考えられている。
さらに進んで土橋(これは明らかに土橋だ!)を進んで二の丸に向かう。
二の丸への土橋と堀
二の丸への土橋を渡る。堀の左右は堀なんだけど、藪っていてよくわからない。
ちなみにこちらは土橋からの右側(東側)の堀。わかりづらいけど・・・けっこう深くて広い。
幅は5mくらいあるんじゃないかな。広いし高低差もあります。
>>大高城 二の丸と本丸へ
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