島原・天草の城めぐり。3日目は八代から熊本にかけて城めぐりしましたが、泊まった八代からいったん南下して早朝に佐敷城へ。
雨の中、朝もやにけむる石垣の城はまるで『天空の城』のような雰囲気。佐敷城は整備されていて歩きやすいので、少々の雨なら難なく城めぐりできました。
佐敷花岡城とは
ぐるっと曲がる佐敷川に東、北、西を囲まれた山の上に建つ。佐敷川の東側に戦国期に佐敷氏が築いた「佐敷古城」があり、堀切や曲輪が残っている。それとは区別するために天正16年(1588年)に加藤清正が肥後に入った以降の清正によって築かれたこの近世の佐敷城は「佐敷花岡城」とも呼んでいます。案内版やパンフには「佐敷城」という表現で載っているのでここでは「佐敷城」とします。

いやぁ~。「城を作れ」と命じたくなる良い立地だ。
築城は天正17年(1588年)頃とみられている。
「梅北の乱」によって城代を務めていた加藤清次が朝鮮出兵(文禄の役)に出陣している合間に薩摩の島津家の家臣梅北国兼によって佐敷城は乗っ取られたことも。慶長の役に加藤重次が再度朝鮮半島に渡ったのちに佐敷城の改修が行われたとみられている。
慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いで島津軍に包囲されたこともあり、関ケ原後に本格的な近世城郭へと大改修されました。
20年弱の間に3期に石垣に手を加えられたことが判明していて、
- 天正17年(1588年)頃の築城時
- 慶長3年~5年(1598~1600年)頃の梅北の乱後の改修時
- 慶長12年(1607年)関ケ原の跡の改修時
そして築城から27年で2度にわたって大きく破壊されました。
- 元和元年(1615年)の一国一城令によって破城
建築物の撤去が中心で、石垣はわずかに崩された程度で残っていたようだ。 - 寛永14年(1637年)の天草・島原の乱後に徹底的に破壊
石垣を壊して堀を埋め、崩された石も取り除かれた。
その後も正保4年(1647年)で洪水が発生した際には石垣の石が佐敷川の堤防に利用されました。
そういった経緯もあり、発掘調査時には激しく崩されていたという。現在は破城時の崩され具合が見事に復元されていて、破壊された石垣の様子ですら圧倒的な存在感があります。

追手門付近からは「天下泰平」銘の鬼瓦だったり、その他にも鯱瓦などが見つかっています。
佐敷城 縄張図

城内にある案内板にあった縄張図は本丸、二ノ丸、三ノ丸のみ。駐車場から歩いて行くと上記画像の下にある矢印のところから入っていくことになります。この画像には一部しかなく、史跡佐敷城跡保存管理計画 第5章によると、

本丸の先に東出丸、北出丸があり、三ノ丸の先には登城口とつながる南出丸があります。今回は北出丸の途中までと南出丸まで行きました。
佐敷城へ

佐敷城は標高約88mですが、車で中腹まで登って行けるので車さえ運転できればアクセスは良いです。
駐車場にはトイレもあり、休憩所にはパンフもあります。
緩やかに登る歩道を歩いて行くと、いきなりザ・清正な雰囲気を醸し出す石垣が現れる。

上部が破壊されている光景もなお美しい。見よ!この角度!これは期待できるぞ。

いやぁ~。とにかく立派です。
時刻は7:30 a.m. 。眠気が一気に吹っ飛んだ!
搦手門跡
二ノ丸へ入るための搦手門跡に到着。

搦手ということで幅は狭い。写真の左側は本丸です。

石段を登って振り返ると、改めて「高いところに造られたなぁ」と思う。
入ると突き当って正面と本丸からやられるパターンね。さらに右折して左折。今は視界が開けているけど、これが2mくらいの石垣だったとしてらかなりな圧迫感。それより高かったらなおさらね。
この搦手門跡からは桐門の鬼瓦が出土しています。豊臣の家紋をデザインしたもので、そういえば豊臣秀吉って家紋のデザイン化を進めていろんな紋を作ったんだっけ。
鬼瓦は最大級の大きさだったというから、立派な門や櫓などがあったんでしょうね。

桜がとてもきれいだったので撮影。佐敷城には桜の季節に行くのがおすすめです。雨だったのが残念です。
本丸
搦手門跡を登り切ったらそのまま進むと二ノ丸なのですが、さらに石段を登って本丸へ。本丸は変わった造りになっていて、本丸の間に東西に走る通路があり、通路の両側に本丸西門と本丸東門がありました。
本丸西門跡


この石段を登った先に門が建っていたようだ。

礎石発見。
本丸西門の石垣を登り切ったところから後ろを振り返って見るのがおすすめ。
ここも石垣が低いからさほど圧迫感はないけれど、幅がとにかく狭い。待ち構えているところを登ってくるのは怖いわ。
本丸西門の先には一本通路が通り、本丸を分断しています。本丸でさえ二つに分けるてそれぞれに門を作るなんて、どんだけ過剰防衛なんだ!?
通路と二つの門に分断された本丸へ 桜の季節はなおよろし。
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