箕輪門だけじゃない!二本松城 (1)二本松少年隊を感じながら歩く

心のふるさと。福島県の二本松城
ワタクシ、父方が二本松ネイティブ、母方は福島県内の転勤族で最終的に二本松に落ち着いた、ということで二本松が第二の故郷。子どもの頃は夏休みに帰るとよく二本松城で遊んでました。
二本松城は通称「霞ヶ城」で、ワタシや地元の人には「霞ヶ城」という呼び名のほうが馴染みがある。二本松城がある周辺は公園としていて整備されていて、地元では一帯を「お城山(おしろやま)」という愛称で呼んでます。

子ども心に二本松城の石垣に心惹かれたことをよく覚えています。まだ歴史の勉強なんてする前だったのに、めっちゃテンションあがっていました。
二本松城の箕輪門と多門櫓は昭和の時代に再建されたものだけど、たとえ天守は無かったとしても、「お城=かっこいい」として強烈な印象を残したのです。

2013年7月。久々に二本松に帰った時に時間をみつけて、ひとり、懐かしの「お城山の霞ヶ城」へ行ってきました。
二本松は幕末の戊辰戦争にも関係が深く、ただでさえ愛着があるのに幕末の歴史にも絡んでいるということで、いつも以上に文章が多いです。😅

 

 

二本松城とは?

二本松城はそもそも畠山満泰(二本松満泰)が築いた中世の山城伊達正宗に敗れて二本松氏は滅亡。一時期、伊達正宗の命で片倉景綱、伊達成実が二本松城代になっていたこともありました。
その後は会津若松城の城主、蒲生氏の支城になり、その後は上杉景勝が入城したりと、北の有名どころの戦国大名が次々と入っていたのです。

なのにイマイチ、マイナーなのはなぜだ!?(心の叫び)

江戸時代になって伊予松山藩主で名城「松山城」を築城した加藤嘉明が会津藩の初代藩主としてやってきました。加藤氏は親子二代で二本松城を近世城郭として大幅リニューアル。さらに丹羽光重が入封して山麓に三の丸御殿や箕輪門を建て、城下町も整備しました。
二本松城は山の上のほうは中世の山城、山麓は近世城郭という二つの建築様式で建てられ、その跡が残っている、一粒で二度おいしい城♪なのです。

昭和57年(1982年)には箕輪門と二階櫓、多聞櫓が復元され、平成5年~7年(1993~1995年)には本丸の修復と復元工事がされて、天守台や本丸石垣が整備され、遠くからも山の頂上の天守台が見えるようになりました。フォトジェニックかつ、荒々しい野面積みの石垣も見ることができて見ごたえがあります!

 

二本松城 基本情報

  • 築城年:嘉吉年間(1441~44)、天正18年(1590)、寛永4年(1627)、寛永20年(1643)
  • 築城主:畠山満泰、蒲生氏郷、加藤嘉明、丹羽光重
  • 種類:山城→平山城
  • 天守:天守台のみ残る 天守が築かれたかどうかは不明
  • 主なタイトル: -
  • 主な遺構:本丸、三の丸、石垣、井戸跡
  • 文化財指定: -
  • 所在地:福島県二本松市郭内3丁目・4丁目
  • アクセス:JR東北本線「二本松」駅から徒歩約25分で箕輪門に到着。在来線は郡山までの新幹線よりも本数が少ないので乗り継ぎに注意!
    二本松駅から二本松城までは交通手段はありません。二本松駅でタクシーに乗るか歩く!(ただし、ひと山を越えます。坂を上って下ってまた上る。けっこう歩くよ。)
    途中、特に休憩できるところもないので(民家の中を進んでいきます。)覚悟して行きましょう。夏なら水分はこまめにとってね。大手門跡を越えてからもとんでもなく遠い。車があるなら、箕輪門の下まで車で行くことをおすすめします。
  • 駐車場:箕輪門近くに駐車場あり
  • トイレ:霞が城公園内に4か所あり。箕輪門のそばの駐車場のところがわかりやすい。

 

二本松城 見どころ

  • 山の上のほうは中世山城、山麓は近世城郭という、一粒で二度おいしいお城。
    時代とともに積まれ方が違う石垣を見ることができます。
  • 天守台から安達太良山をぜひ眺めて!
    箕輪門から三ノ丸を経由して天守台まではちょっとしたハイキング。運動靴は必須。元は山城だったことから考えると当然なのだけど意外と歩きます。でも天守台からの眺めは最高。諦めずに天守台まで行こう!
    天守台からは安達太良山が見えます。行く前に「智恵子抄」を読んでいくことをおすすめします。
  • 本丸真下にある穴太積みの大石垣を探せ!
    草で覆われているので気がつきにくいかも。道はとりあえずあるので、探すべし!

二本松城と一緒に行きたいおすすめスポット

  • 二本松市歴史資料館
    二本松駅から二本松城に行く間の大手門(坂下門)跡の近くにあります。二本松城を描いた絵などが展示されています。
  • 大壇口古戦場
    隊長・木村銃太郎に率いられた25名の二本松少年隊が戦った場所。
  • 大隣寺
    丹羽氏の菩提寺で、二本松少年隊供養塔があります。
  • 玉嶋屋
    二本松のお殿様(丹羽公)が徳川将軍家に献上していたという本練羊羹が現在もいただけます。玉羊羹考案・発祥の老舗のお店です。
  • 智恵子の生家
    智恵子抄の「智恵子は遠くを見ながら言ふ。阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。 あどけない空の話である。」で有名な高村智恵子の生家が残っています。

 

二本松駅から歩いて二本松城へ

二本松駅構内には小さな観光案内のブースがあって、100名城スタンプはここにあります。二本松の観光パンフが手に入れられる数少ないスポットです。大河ドラマ「八重の桜」にまつわるスポットを案内するパンフもありました。

二本松駅周辺
二本松駅周辺

上:二本松駅
左:「突き」の型が特徴的な二本松少年隊の像
右:駅前の交番。「二本松奉行所」と書かれている!

昔は駅前の商店街でよく買い物したものだけど、お店として営業しているのはわずかとなってしまいました。駅前が整備されてこじゃれた一角ができあがっていて、きれいなったのは嬉しいけどちょっとさびしい。

老舗の名店も
老舗の名店も

左上:駅から一本道を歩くとつきあたる二本松神社の入口
右上:二本松神社の鳥居
左下:ようかんで有名な玉嶋屋
右下:モダンな水菓子の日夏

二本松神社はお殿様である丹羽公が崇敬した神社で、毎年10月4~6に行われる例大祭は「二本松提灯(ちょうちん)祭り」として有名です。
朝ドラで斉藤由貴がヒロインを演じた「はね駒(はねこんま)」の初回にちょうちん祭りの模様が放送されていました。伯父がちょうちん祭りのエキストラで出ていて、よく田舎に帰るとビデオを見せられたものです。

玉嶋屋、日夏は建物が素敵。最後に「グルメ編」としてUPします。
日夏がある角を左折すると、あとはお城山までまっすぐ道なりに歩いてきます。

 

二本松城 大手門跡

二本松市歴史資料館の手前にある石垣。これは二本松城の大手門跡です。

二本松城 大手門跡
二本松城 大手門跡

二本松市教育委員会の案内板によると、堀をともなった大手門で、本格的な櫓門が建っていたことが資料にも残っている。通称「坂下門」とも呼ばれていたそうな。
初代藩主丹羽光重が入封した際に大手門の建造を望んだけど藩の財政状況が良くなく断念。歴代藩主の悲願であったのだけど、9代藩主の時にやっと大手門が完成!しかし、わずか30数年後の1868年に戊辰戦争が勃発。その際に焼失しました。
現在では「亀甲積み崩し」による石垣が残っています。

大手門を通過したので、城まですぐかな?と思ったんだけど。
まぁ、普通はそう思うよね。

大手門跡を通過して坂道を登っていく。けっこう登ってきたな。と思うけど、ガーン。下り坂。そしてその先にはまたゆったりとした上り坂。
大手門を越えたけど、いつになったら着くんだ!?

二本松城の敷地、なんて広いんだ。ひたすら二本松城を目指して歩く。
目印となる二本松北小学校を通過すると、だんだんお城っぽくなってきました。

 

城らしき気配になってきた
城らしき気配になってきた

二本松駅前から20分。大手門跡から15分。やっと到着。20分といっても間に上って下って緩やかに上ってきたのでかなりなダメージ。途中、撮影しつつだったけど、観光客より早足だし、少しは土地勘もある。撮影をしない観光客であっても20分はかかると思う。
7月の暑さにやられて、タクシーで来なかったことが悔やまれる。初めて来た観光客が駅から歩いてきたら「不安になる遠さ」だよ。

写真の右側に大きな石があるけどただの石ではない!これも二本松城での名所です。

戒石銘(かいせきめい)。国指定史跡
戒石銘(かいせきめい)。国指定史跡

戒石銘(かいせきめい)。国指定史跡。
二本松城は丹羽氏10万700石の居城。城の東側に藩庁があって、藩士たちの通用門がありました。その藩庁前にあったのがこの石。
5代藩主の丹羽高寛(たかひろ)公の時に藩士の戒め(いましめ)とするため、命じて刻ませました。刻まれているのは漢文なんだけど、二本松市教育委員会発行のパンフによるとこういう意味のようです。

お前がお上から戴く俸禄(給料)は、民の汗と脂の結晶である。
下々の民は虐げ易いけれども、神をあざむくことはできない。

二本松市教育委員会発行パンフレットより

武士とはどうあるべきか、戒めを説いたもので、二本松藩士奮い起こしたものであり、戊辰戦争にて藩士の多くがこれを心に刻んで西軍に向かっていきました。教育資料として、また行政の規範としての価値を認められ、国史跡「旧二本松藩戒石銘碑」として指定されました。
大河ドラマ「八重の桜」では会津の教えとして什の掟が伝わっていることが有名になったけれど、これは二本松藩の大人版。こういった教訓がどこの藩にもあったのでしょうね。

石垣が見える
石垣が見える

左に進むと石垣と櫓門が見えてきました。

二階櫓と多聞櫓
二階櫓と多聞櫓

左に二階櫓、その奥に小さく多聞櫓があるけど、いずれも昭和の時代に復元されたもの。でも二階櫓は存在しなかったと考えられているとか。
この高石垣と土塀、櫓は「お城」のイメージを伝えるにはじゅうぶんですね。
この二階櫓と多聞櫓のところに二本松城のシンボル「箕輪門」があります。

 

箕輪門

箕輪門が見えてきた
箕輪門が見えてきた

箕輪門は初代藩主の丹羽光重公の時代に作られましたが、戊辰戦争の時に焼失。再建の声が高まり、昭和57(1982)年に再建されました。

では、正面から攻めてみる。
とはいえ、大手門から歩いて坂を登って下ってまた上って15分経過。
もうすでに攻める気力はナシ。根性のみで攻め入る!

箕輪門の前にゆるやかな坂道。ここだけ見ると、決して他の城には負けない!

二本松少年隊群像
二本松少年隊群像

あら?なんか銅像ができあがっている。平成8(1996)年に建てられたそうな。
戊辰戦争で戦った二本松少年隊とその無事を願って服を縫う母親の像です。大河ドラマ「八重の桜」にも出てきた砲術指南の木村銃太郎が指揮をしています。

そして一段下がったところでは二本松独特の「突き」の構えをした剣士。二本松藩では古来から「突き」の剣が伝わっていました。これについては後述するとして。

この広場は「千人溜(せんにんだめ)」といって、藩兵が集合する場所。二本松少年隊もここからそれぞれの場所に出陣していきました。城内のもっと奥に二本松少年隊の碑があったことは子ども心に印象に残っていて、だけどうちの両親はまったく歴史に興味がなかったもので、二本松少年隊って何!?と謎でした。

 

二本松少年隊とは?

「二本松少年隊」というのは後年つけられた名称で、当時は特に隊名はなかったそうです。「白虎隊」のような隊名があったら、もうちょっと有名になれたのかなぁ。同じ少年剣士として会津の白虎隊のほうが圧倒的に有名だけど、彼らは16~17歳。(一部、年齢を偽って15歳から参加した隊士もいたそうです。)
二本松の少年達は彼らよりも若い13~17歳で圧倒的に若かった!

二本松藩には「入れ年」という二本松藩独自のローカル・ルールがありました。二本松藩では成人として扱いを受けるのは、数え年で20歳。18歳になった時点で藩に「成人しました」と届けると、「了解。じゃぁ大人の兵として勤めてよ。」と承認される制度でした。二本松藩が幕末のごたごたの時期には「2歳のサバ読みOK」と黙認してたわけです。

そして1868年、戊辰戦争で会津は賊軍とされ、薩摩や長州をはじめとした官軍が南から攻めてくる。
5/1に北の守りの要だった福島県の白河小峰城が落ちました。二本松藩は白河小峰城に応援を出していて、二本松城は手薄な状態。
7/26に「三春滝桜」で有名な三春にある三春城が無血開城
7月中旬に出陣の年齢が20歳(事実上の18歳)から17歳まで下げられ、さらに「入れ年」を利用して、事実上、15歳から出陣できるようになりました。砲術指南の木村銃太郎の門下の少年達は全員で相談して出陣を懇願したといいます。
7/27。二本松のすぐ南にある本宮城が占拠される。
とうとう出陣の年齢が15歳まで引き下げられる。事実上の13歳での出陣が可能になり、62名が出陣しました。

こうやって書いてみると、土地勘があるだけに、だんだんと攻めてくる様子が妙に臨場感があって恐ろしい。

「入れ年」は戊辰戦争の時に作られた付け焼刃の制度ではありません。「いざという時には藩のために戦え」というのが根付いていたんでしょうね。その忠誠心といったら。二本松の藩士って本当に一途なんだわ。
隠居した老人も駆り出されるくらいの兵不足ゆえ、「入れ年」というローカル・ルールにより、多くの少年達を戦争に向かわせることになったのです。ぜひ、敗者の歴史も知っておいていただきたい、ということで長々と書いてしまった。

 

二本松城のシンボルにもなっている箕輪門から三ノ丸へ入ります。

箕輪門へ
箕輪門へ

ゆったりとした坂道。昔は砂利道じゃなかったっけか?

二階櫓と箕輪門と多聞櫓
二階櫓と箕輪門と多聞櫓

二階櫓、箕輪門と多聞櫓は昭和57年(1982年)に復元されました。二階櫓と多聞櫓がとても立派なのだけど、この櫓たちは残っている絵図には描かれていません。二階櫓には狭間だけでなく石落としまであって、いかにもここに存在していそうなんですけどね。ワタシが物心ついたときからこの三点セットはあったので、違和感はなかったけど、石垣しか残っていなかったところにこれだけの櫓や門が建ったとしたら、驚くだろうなぁ。

箕輪門
二階櫓と箕輪門

絵図にはなかった二階櫓。本来ならどんな建物が建っていたのだろう。箕輪門の大きさから逆算してもそれなりに大きな建物がたっていたんだろうな。二階櫓でなかったとしても、この画角からだと威圧感がすごい。他の城とも遜色無いので、守りはそれなりに堅いと思う。大手門から箕輪門までは登りで谷を挟んでまた登る必要があるし、三の丸を囲む石垣も立派なもの。それでも1日で落城したということは、城域に対して兵不足だったのかなぁ。
などと、考えながら箕輪門を突破してみます。

続く

 

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